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zoom RSS 探険家の歴史第3部 第10章 鎖国体制下の日露関係

<<   作成日時 : 2018/06/12 13:56   >>

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鎖国体制下の日露関係をここで年代順に確認する。

 カムチャッカ半島を探検したアトラソフ以後のことである。

 1711年、イワン・コジレフスキーが千島列島を探検し、最南部の国後島に上陸した。

 1739年、ヴィトゥス・ベーリングが派遣したマルティン・シュパンベルク隊が仙台湾や安房国沖に接近したものの、徳川幕府は沿岸防備を強化した為、接触に失敗した(→元文の黒船)。

 日本もこの頃までには、北方に「おろしや」という国があることを知るようになった。

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 1762年、ロシアはエカチェリーナ2世の治世となり、1764年に東方のイルクーツクに日本航海学校を、1768年に日本語学校をそれぞれ設置し、日本付近への航海を積極的に行うようになった。

 こうして18世紀にはロシアと日本もほぼ隣国の関係となり、日本近海とくに蝦夷地周辺に「赤蝦夷」と呼ばれていたロシア勢力が出現するに及んで、江戸幕府の北方開拓を刺激することにもなった。

 1771年、阿波国にロシア船が漂着する「ベニョフスキー事件」(「はんべんごろう事件」とも)があった。

 1778年、ロシアの勅書を携えたイワン・アンチーピンの船が蝦夷地を訪れて直に通商を求めたが、翌1779年に松前藩はそれを拒否した。

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 1781年、仙台藩の藩医工藤平助はロシア研究書である「赤蝦夷風説考」を著述し、北方海防の重要性を世に問うた。

 当時政治改革を主導していた老中田沼意次も北方に関心を抱き、蝦夷地調査などを開始したが、まもなく田沼は失脚した。

 1783年、日本の船頭大黒屋光太夫が伊勢白子浦から江戸へ向かう航海の途上に漂流してアリューシャン列島に漂着し、一行はロシア人によって保護された。

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 1791年、大黒屋光太夫は女帝エカチェリーナ2世と謁見した。

 1792年、帰国を望んでいた光太夫はロシア使節アダム・ラクスマンに伴われて根室に着いた。ロシアは漂着民を届けることを根拠に通商交渉を狙ったが、再度断られ、老中松平定信は周辺を巡視させた。

 光太夫によって伝えられたロシア事情は桂川甫周の手よって「北槎聞略」にまとめられ、幕府にとっては鎖国時代における貴重なロシア情報となった。

 また、海外事情に通じた林子平がロシアの日本近海進出について説く啓蒙活動を行い、長崎出島でのオランダ通詞からの情報などでロシアに関する認識が深まっていった。

 1793年11月、仙台藩の津太夫や善六ら16人乗りの若宮丸が石巻から江戸へ向かう航海の途上に漂流して、アリューシャン列島東部のウナラシカ島に漂着した。

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 1799年、松前藩にかわって幕府が蝦夷地の直轄統治を開始し、最上徳内や近藤重蔵に蝦夷地探検を行わせた。

 1804年9月、ニコライ・レザノフが日本人漂流者の津太夫らを伴い、長崎に来航した。

 1806年2月、津太夫によって伝えられたロシア事情が「環海異聞」に仙台藩でまとめられた。ロシアの開港要求を幕府が拒絶したため、レザノフは武力による通商開始を上奏していた。

 1806年1月26日、江戸幕府は異国船打払令を廃止し薪水給与令(文化の撫恤令)を発布した。しかし、同年9月にレザノフの部下ニコライ・フヴォストフ(ロシア語版)が蝦夷地の日本側拠点である樺太の松前藩の番所を襲撃(フヴォストフ事件)。

 1807年5月、択捉島駐留の幕府軍を攻撃した(文化露寇)。

 そのため、江戸幕府は薪水給与令を撤回し、同年12月にはロシア船打払令を発布した。

 1807年、レザノフが病死した。

 1808年、ロシア軍の暴挙を聞いた皇帝アレクサンドル1世が全軍撤収命令を下し、フヴォストフは処罰された。

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 1808年、松田伝十郎と間宮林蔵がロシア帝国の動向について調査する為に樺太へ渡った。

 1809年、間宮海峡を沿海州へ渡って黒竜江下流を調査した記録が「東韃地方紀行」にまとめられた。

 しかし、日露間の緊張関係を背景に、1811年には千島列島を探検中に国後島に上陸したヴァーシリー・ゴローニンが幕吏に捕らえられ、その報復として日本の商人である高田屋嘉兵衛が連れ去られる事件が起こった(ゴローニン事件)。

 正式の国交をもたないままの緊張をはらんだゴローニン事件の交渉は1821年までに落ち着きを取り戻し、蝦夷地は再び松前藩に返還される。

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 1828年、シーボルトから最上徳内と高橋景保へ、北方の地図や日本の地図と引き換えにクルーゼンシュテルン(レザノフが後援していた)の「世界周航記」が与えられたことが、シーボルトからの手紙を間宮林蔵が上司に提出したことにより発覚し、シーボルト事件が起った。

 19世紀半ばに入ると、ロシアは農奴解放を求める国内の改革への圧力と、クリミア戦争などのヨーロッパ方面での南下の試みの挫折を受けて、再び極東への進出を重視してきた。

 開国以後1858年、プチャーチンは間をおいて再び長崎に来航し、日本と日露修好通商条約を結んだ。これにより、下田・箱館・長崎の3港が開かれ、日露の国境は千島列島の択捉島と得撫島の間にひかれて、樺太は両国これまで通り雑居地として日露の正式な国交が開始する。

 開国以後の日露関係をここで年代順に確認する。

 1875年、日本とロシア帝国との間で樺太・千島交換条約が結ばれた。署名した場所からとって、サンクトペテルブルク条約と呼ぶ場合もある。

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 この条約は樺太での日本の権益を放棄する代わりに、得撫島以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、および両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた樺太・千島交換条約を締結した。
 これによって樺太はロシア、千島は日本の領土となった。
 


鎖国体制下の日露関係をここで年代順に確認する。

 カムチャッカ半島を探検したアトラソフ以後のことである。

 1711年、イワン・コジレフスキーが千島列島を探検し、最南部の国後島に上陸した。

 1739年、ヴィトゥス・ベーリングが派遣したマルティン・シュパンベルク隊が仙台湾や安房国沖に接近したものの、徳川幕府は沿岸防備を強化した為、接触に失敗した(→元文の黒船)。

 日本もこの頃までには、北方に「おろしや」という国があることを知るようになった。

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 1762年、ロシアはエカチェリーナ2世の治世となり、1764年に東方のイルクーツクに日本航海学校を、1768年に日本語学校をそれぞれ設置し、日本付近への航海を積極的に行うようになった。

 こうして18世紀にはロシアと日本もほぼ隣国の関係となり、日本近海とくに蝦夷地周辺に「赤蝦夷」と呼ばれていたロシア勢力が出現するに及んで、江戸幕府の北方開拓を刺激することにもなった。

 1771年、阿波国にロシア船が漂着する「ベニョフスキー事件」(「はんべんごろう事件」とも)があった。

 1778年、ロシアの勅書を携えたイワン・アンチーピンの船が蝦夷地を訪れて直に通商を求めたが、翌1779年に松前藩はそれを拒否した。

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 1781年、仙台藩の藩医工藤平助はロシア研究書である「赤蝦夷風説考」を著述し、北方海防の重要性を世に問うた。

 当時政治改革を主導していた老中田沼意次も北方に関心を抱き、蝦夷地調査などを開始したが、まもなく田沼は失脚した。

 1783年、日本の船頭大黒屋光太夫が伊勢白子浦から江戸へ向かう航海の途上に漂流してアリューシャン列島に漂着し、一行はロシア人によって保護された。

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 1791年、大黒屋光太夫は女帝エカチェリーナ2世と謁見した。

 1792年、帰国を望んでいた光太夫はロシア使節アダム・ラクスマンに伴われて根室に着いた。ロシアは漂着民を届けることを根拠に通商交渉を狙ったが、再度断られ、老中松平定信は周辺を巡視させた。

 光太夫によって伝えられたロシア事情は桂川甫周の手よって「北槎聞略」にまとめられ、幕府にとっては鎖国時代における貴重なロシア情報となった。

 また、海外事情に通じた林子平がロシアの日本近海進出について説く啓蒙活動を行い、長崎出島でのオランダ通詞からの情報などでロシアに関する認識が深まっていった。

 1793年11月、仙台藩の津太夫や善六ら16人乗りの若宮丸が石巻から江戸へ向かう航海の途上に漂流して、アリューシャン列島東部のウナラシカ島に漂着した。

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 1799年、松前藩にかわって幕府が蝦夷地の直轄統治を開始し、最上徳内や近藤重蔵に蝦夷地探検を行わせた。

 1804年9月、ニコライ・レザノフが日本人漂流者の津太夫らを伴い、長崎に来航した。

 1806年2月、津太夫によって伝えられたロシア事情が「環海異聞」に仙台藩でまとめられた。ロシアの開港要求を幕府が拒絶したため、レザノフは武力による通商開始を上奏していた。

 1806年1月26日、江戸幕府は異国船打払令を廃止し薪水給与令(文化の撫恤令)を発布した。しかし、同年9月にレザノフの部下ニコライ・フヴォストフ(ロシア語版)が蝦夷地の日本側拠点である樺太の松前藩の番所を襲撃(フヴォストフ事件)。

 1807年5月、択捉島駐留の幕府軍を攻撃した(文化露寇)。

 そのため、江戸幕府は薪水給与令を撤回し、同年12月にはロシア船打払令を発布した。

 1807年、レザノフが病死した。

 1808年、ロシア軍の暴挙を聞いた皇帝アレクサンドル1世が全軍撤収命令を下し、フヴォストフは処罰された。

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 1808年、松田伝十郎と間宮林蔵がロシア帝国の動向について調査する為に樺太へ渡った。

 1809年、間宮海峡を沿海州へ渡って黒竜江下流を調査した記録が「東韃地方紀行」にまとめられた。

 しかし、日露間の緊張関係を背景に、1811年には千島列島を探検中に国後島に上陸したヴァーシリー・ゴローニンが幕吏に捕らえられ、その報復として日本の商人である高田屋嘉兵衛が連れ去られる事件が起こった(ゴローニン事件)。

 正式の国交をもたないままの緊張をはらんだゴローニン事件の交渉は1821年までに落ち着きを取り戻し、蝦夷地は再び松前藩に返還される。

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 1828年、シーボルトから最上徳内と高橋景保へ、北方の地図や日本の地図と引き換えにクルーゼンシュテルン(レザノフが後援していた)の「世界周航記」が与えられたことが、シーボルトからの手紙を間宮林蔵が上司に提出したことにより発覚し、シーボルト事件が起った。

 19世紀半ばに入ると、ロシアは農奴解放を求める国内の改革への圧力と、クリミア戦争などのヨーロッパ方面での南下の試みの挫折を受けて、再び極東への進出を重視してきた。

 開国以後1858年、プチャーチンは間をおいて再び長崎に来航し、日本と日露修好通商条約を結んだ。これにより、下田・箱館・長崎の3港が開かれ、日露の国境は千島列島の択捉島と得撫島の間にひかれて、樺太は両国これまで通り雑居地として日露の正式な国交が開始する。

 開国以後の日露関係をここで年代順に確認する。

 1875年、日本とロシア帝国との間で樺太・千島交換条約が結ばれた。署名した場所からとって、サンクトペテルブルク条約と呼ぶ場合もある。

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 この条約は樺太での日本の権益を放棄する代わりに、得撫島以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、および両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた樺太・千島交換条約を締結した。
 これによって樺太はロシア、千島は日本の領土となった。

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