探険家の歴史第3部 第6章 松前慶広と蝦夷錦

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 ロシアに於ける辺境がシベリアなら、日本における辺境は北海道(蝦夷地)及び樺太そして千島列島であろう。

 シベリアはロシア民族以外の民族の居住する場所で、同じように北海道(蝦夷地)及び樺太そして千島列島も大和民族(日本民族、和人ともいう)以外の民族が住んでいた。

 今回は、この日本の辺境地域に進出した松前氏までの日本の辺境史を考察してみたい。

 今の日本人の祖型となった人々は、ウルム氷期の狩猟民の子孫である縄文人と、農耕の技術を持参して大陸から日本列島へ渡来した弥生人である。

 彼らが混血して日本人の祖型が出来上がり、古墳時代の大和朝廷の勢力の拡大とともに「日本」という枠組みの原型が作られ、文化的・政治的意味での日本民族が徐々に形作られていく。

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 7世紀後期の天武・持統期の律令制導入は天皇中心の国家体制を確立させ、13世紀の元寇は日本民族に「日本」や「日本人」という意識を浸透させていく契機となった。

 天皇を中心とする日本の国の北方辺境への進出は、稲作文化による狩猟採取文化の淘汰でもあった。

 古代、本州東部とそれ以北は日本の管轄外の地域であり、そこに住んでいたのは日本やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた蝦夷と呼ばれた集団だった。

 蝦夷と呼ばれた集団はアイヌばかりではなく、日本人につながるものもいた。

 蝦夷についての形式上最も古い言及は「日本書紀」で、神武天皇の東征軍を大和地方で迎え撃ったのが蝦夷であったとされる。(この頃は大和地方も蝦夷地だった。)

 7世紀頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に広く住み、その一部は日本の領域の中にあった。

 日本が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こし、又国境を越えて襲撃を行った。

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 最大の戦いは胆沢とその周辺の蝦夷との戦いで、780年に多賀城を一時陥落させた伊治呰麻呂、789年に巣伏の戦いで遠征軍を壊滅させた阿弖流為(アテルイ)らの名がその指導者として伝わる。

 日本は大軍で繰り返し遠征し、征夷大将軍坂上田村麻呂が胆沢城と志波城を築いて征服した。

 蝦夷は平時には交易を行い、昆布・馬・毛皮・羽根などの特産物を日本にもたらし、代わりに米・布・鉄を得た。

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 9世紀に蝦夷に対する朝廷からの征服活動は、岩手県と秋田県のそれぞれ中部で停止した。しかしその後も、現地の官僚や俘囚の長たちは、蝦夷内部の紛争に関与し続け、地方権力から支配を浸透させた。

 こうして、東北地方では12世紀には蝦夷としての独立性は失われた。

 中世以後の蝦夷は、アイヌを指すとの意見が主流である。(ただし中世の蝦夷はアイヌのみならず後に和人とされる渡党も含む。)

 13世紀から14世紀頃には、現在アイヌと呼ばれる民族と同一とみられる蝦夷が存在していたことが文献史料上から確認される。

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 アイヌの大部分が居住していた北海道は蝦夷が島や蝦夷地などと呼ばれた。

 14世紀には、「渡党」(近世の松前藩の前身)、「日の本」(北海道太平洋側と千島。近世の東蝦夷)、「唐子」(北海道日本海側と樺太。近世の西蝦夷)に分かれ、渡党は和人と言葉が通じ、本州との交易に従事したという文献(『諏訪大明神絵詞』)が残っている。

 また、津軽地方の豪族である安東氏が、鎌倉幕府北条氏より蝦夷管領(または蝦夷代官)に任ぜられ、これら3種の蝦夷を統括していたとする記録もある。

 15世紀から16世紀にかけて、渡党を統一することで渡島半島南部の領主に成長していった蠣崎氏は、豊臣秀吉・徳川家康から蝦夷地の支配権、交易権を公認され、名実共に安東氏から独立し、江戸時代になると蠣崎氏は松前氏と改名して大名に列し、渡党は明確に和人とされた。

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 ここからが今回の主役である松前藩の第5代当主蠣崎慶広と、彼を松前慶広にした蝦夷錦の話となる。

 1593年正月、秀吉が朝鮮出兵の拠点として秀吉が築いた北九州肥前の名護屋城に一人の武将が謁見していた。

 その武将は絹地に龍や雲の細密な刺繍を金糸や銀糸で施し、裏には手引白木綿地と水色絹地が用いた異国風で見事な胴衣を身につけていた。

 この武将こそ蠣崎慶広であった。

 秀吉は「狄の千島の屋形」が遠路はるばる参陣してきたことは朝鮮征伐の成功の兆しであると喜び、慶広に望みの朱印状をあたえ蝦夷地支配を認めた。

 慶広は朱印状を領民に示すとともに、アイヌを集めてアイヌ語に翻訳し、自分の命に背くと秀吉が10万の兵で征伐に来ると伝え、全蝦夷地(樺太、北海道)の支配を確立した。

 また、謁見の際引見した徳川家康は、子供のようにその胴衣を無心し、慶広はその場で胴衣を脱ぎ、家康に献上したという。



 また1598年に秀吉が死去すると、徳川家康と誼を通じ、1599年に家康の臣従を示すものとして蝦夷地図を献上した。

 また家康に許され、姓を家康の旧姓の松平と前田利家の前をとって松前に改めた。

 1604年に家康より黒印制書を得てアイヌ交易の独占権を公認された。

 松前氏は大名格とみなされ、慶広は松前藩の初代藩主となった。

 これほどまでに松前氏と松前藩の格を高めた蝦夷錦は、実は慶広自身も詳細は分からず、アイヌから入手したとしか語らなかった。

 人々は蝦夷地のさらに北方の文明国の存在を想像し、ますます高価な価値を持ち、僧侶の袈裟やふくさに使われ、また京都の祇園山鉾も飾り、さらに松前藩の江戸幕府への献上品ともなった。

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 蝦夷錦(山丹服)は、アイヌ民族が沿海州の民族との交易で入手した、雲竜などを織り出した中国産絹や官服のことである。

 かつてアイヌは北方のツングース系民族とも交流があり、彼らと山丹交易と呼ばれる交易を行っていた。

 山丹交易とは、江戸時代に山丹人(山旦・山靼とも書く。主にウィルタ族の他、ニブヒ族、オロチョン族など沿海州の民族)とアイヌとの間で、主として樺太を中継地として行われた交易のこと。

 この交易の全体像は環日本海というスケールで、中華王朝が黒竜江下流域に設けた役所での朝貢交易から、山丹人やアイヌを介しての蝦夷地の和人(松前藩)までの交易をさした。

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