越前と若狭の旅 その37 北国街道の宿場町「今庄」でソバの昼食

 織田一族発祥地を発ち、そこから10分程車を走らせ越前陶芸村に着いた。

 越前陶芸村は越前焼発祥の地である越前町小曽原にある広大な陶芸公園で、福井県陶芸館や文化交流会館、越前焼直売所、芝生広場、陶彫公園、陶芸家の工房など、越前焼に関するさまざまな施設が揃っている場所である。

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 越前焼の誕生は今から約850年前の平安時代末期に遡るという。

 元々須恵器を焼いていた地域だったが、平安時代末期に常滑の技術を導入して焼き締め陶を作り始めた。

 常滑は愛知県の西部に位置する市で、焼き物の技術は愛知県から越前に来て、織田氏は越前から愛知県へ旅立ったという歴史の面白さに惹かれた。

 常滑焼は日本六古窯の一つ(他は瀬戸、越前、信楽、丹波、備前の五つ)で、この中でも常滑焼は最も古く最大の規模であるという。

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 話を越前焼に戻すが、硬くて丈夫な越前焼は越前海岸から船に乗せて北海道南部から島根県までの日本海沿岸に住む人々の元に運ばれ、大きな甕や壺は水や穀物の貯蔵、藍染め、銭瓶などとして重宝された。

 こうして北陸地方最大、日本海側最大の窯場へと発展し、室町時代後期に越前焼は最盛期を迎えたが、江戸時代中期になると瀬戸焼などに押されて越前焼は次第に衰退し、生産量も縮小して行った。

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 再び注目されるようになったのは戦後のことで、日本六古窯に数えられるようになり、また越前陶芸村の建設によって多くの陶芸家が全国から集まった。

 現在は焼き締め陶の伝統を生かした種々の新しい作陶が試みられていて、この越前陶芸村の周辺で再び陶芸の新しい歴史が作られているという。

 司馬遼太郎は越前陶芸村で「街道をゆく 越前の諸道」を終えているが、僕はここをさっと流して北国街道ルートに乗り、今日の昼食場所と決めている今庄に向かった。

 ほんとうは、ソバグルメの司馬遼太郎が「街道をゆく 北国街道とその脇街道」の中で書いていた武生の美味しいソバ屋である「名店うるしや」で昼食としたかったのだが、残念ながらこの店はだいぶ前から休業していて、その後閉店となっていた。

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 越前陶芸村から1時間程走って、午前11時54分に今庄に到着した。

 今庄は古くから北国街道の宿場町として栄えていた。

 江戸時代になると、北国街道が江戸参勤には最短路であることから、越前各藩は必ずと言ってよいほど今庄宿を利用した。

 その上、初代福井藩主結城秀康が計画的な町並みを造らせ重要な宿場として整備したため、江戸時代を通して越前でもっとも繁栄した宿場町となった。

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 今庄宿は街道に沿って北から上町、観音町、中町、古町、新町の5町あり、その町並みは約1キロメートルに及び、家屋が櫛の歯のようにぎっしりと立て込んでいた。

 特に中町には、福井藩、加賀藩の本陣や脇本陣、問屋、そして多くの造り酒屋、旅籠が集まり、高札場もあった。

 この今庄宿はまたソバでも有名で、「今庄そばまっぷ」などという地図をネットから取り出し、それを持参して今庄の町に繰り出した。

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 そして選んだ店がここ、忠兵衛である。

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 頼んだソバは、左側の越前名物のおろしソバ+右側の通常のわさびソバのセットで、この二つで一人前の量で値段は1300円、とても美味しいソバだった。

 またこのソバ屋で、味の他にも感動した出来事が一つあった。

 それはここで見かけた橘曙覧の、「楽しみは・・・・・時」を真似たこんな秀歌に出会ったことである。

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 本当にこれを見たときは旅の疲れも吹っ飛び、橘曙覧の豊かな感性を受け継いで自然に生きている、無名の福井県人の人柄に深く感じ入った。

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