「鎌倉ものがたりと横須賀ストーリー」 その28 稲村ヶ崎と新田義貞の鎌倉攻め

 鎌倉ものがたりと横須賀ストーリーの旅も4日目となり、今日は「鎌倉ものがたり」最後の日で、江ノ電に乗り江ノ島まで行く。

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 計画は上記のとおりであるが、雨天となってしまったのでこの計画がどうなるかはまったくわからない。

 この日の朝食は、素泊まり1泊8500円のホテルニューカマクラの部屋の中で、コンビニで買った納豆巻とハムとおにぎりと、お湯を沸かして作ったカップ味噌汁(ネギの味噌汁)で済ませた。

 それでは今日の旅に出発である。

 宿が変わるので、江ノ電の鎌倉駅内にあるコインロッカーに旅行用スーツケースを預け、江ノ電の「一日乗車券のりおくん」を600円で購入し、午前9時ころには江ノ電に乗り込んだ。

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 鎌倉駅を出発すると、和田塚、由比ケ浜、長谷、極楽寺と電車は停まっていく。

 稲村ヶ崎駅からは各駅で下車して、駅周辺を歩いてみた。

 まず、最初の稲村ヶ崎駅である。

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 駅の近くの線路を渡って、海岸方向にある稲村ヶ崎を目指して歩いていく。

 稲村ヶ崎は鎌倉市南西部にある岬で、地名の由来はこの地が稲穂を重ねたように見えたためとのことで、古来から良質な砂鉄が採取されていて、古代この地で製鉄がおこなわれていたと考えられている。

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 前方の小山になっている場所が稲村ヶ崎である。

 ここは太平記に記された新田義貞の鎌倉攻めで有名な場所である。

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 稲村ヶ崎にあるこの碑には

 「鎌倉にせまった義貞が稲村ヶ崎の海岸を渡ろうとしたが、波打ち際は切り立った崖で道狭く、軍勢は稲村ヶ崎を越えられなかった。

 そこで義貞が、潮が引くのを念じて剣を投じると、その後潮が引いて干潟となったので岬の南から鎌倉に攻め入った。」というようなことが書かれていた。

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 稲村ヶ崎の下の海岸部へ降りてみると、平坦な岩場が長く続いていたが、その先はまた断崖絶壁となっていた。

 新田義貞の鎌倉攻めをネットで調べてみた。

 1333年5月8日、新田義貞は上野国新田庄の生品いくしな明神(群馬県新田郡新田町市野井)の社前で後醍醐天皇から拝受した綸旨りんじ(天皇の言葉が書かれている文書)を三度拝して倒幕の旗を挙げた。

 その主兵力はわずか150余騎で出陣したが、その日の夕方には越後の同属2千余騎、甲斐・信濃の源氏5千余騎の来援があって、大部隊となった。

 小手指原の合戦、久米川の合戦、分倍河原の合戦などを経て、1333年5月18日朝に義貞軍は鎌倉郊外(藤沢)にせまった。

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 義貞軍は三方向から鎌倉へ攻め込んでいった。

 右翼軍には大舘宗氏を大将として片瀬・腰越から極楽寺坂へ向かわせ、左翼軍は堀口貞光を大将として巨福呂(こぶくろ)坂に向かわせ、義貞自らは中央軍の将として化粧(けわい)坂に向かった。

 18日から攻防戦がはじまり激戦は五日間にわたった。

 極楽寺坂にむかった右翼軍の大将の大舘宗氏が戦死し、片瀬・腰越あたりまで後退した。  そこで義貞は主力を率いてこの方面に転じた。

 5月22日午前2時頃、稲村ヶ崎の干潮を利用して海岸線を突破して極楽寺坂の背後にまわって、夜明けとともに鎌倉に突入した。

 潮が引くのを念じて剣を投じた話が太平記に書かれ、そのことだけが鎌倉攻めの真相のように思われているが、実際は稲村ヶ崎の干潮・満潮の時を利用しての科学的な戦いだったと僕は考えている。

 幕府軍は総崩れとなり、鎌倉幕府総大将の北条高時は東勝寺で自害、一族283人と郎党870余人はこれに殉じた。

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