越前と若狭の旅 その38 北国街道(東近江路)をゆく

 これから「北国街道」をゆく。

 北国街道とは、奈良や京都の都から北陸地方へ延びていた旧街道で、7世紀半ば(飛鳥時代)に築かれた渟足柵(現在の新潟市沼垂付近)がこの道の終着地点となっていたというが、後に鼠ヶ関まで延伸された。

 僕がこれから駆け抜ける北国街道は今庄宿〜木之本宿~鳥居本宿と繋ぐ街道で、京都~海津〜敦賀と繋ぐ琵琶湖西岸を走る西近江路に対して、琵琶湖東岸を走ることから東近江路とも言われている。

 戦国時代には、柴田勝家が居城である越前北ノ庄城(福井県福井市)と主家である織田信長の居城安土城(滋賀県近江八幡市安土町)を結ぶ重要な街道として整備された道である。

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 この北国街道(東近江路)の、青線部の今庄宿〜木之本宿間をこれから進んでゆく。

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 これは出発の今庄宿風景である。

 今庄に伝わる羽根曽踊りに「今庄朝立ち、木之本泊まり、中河内で昼弁当」と歌われていたので、次の目的地である木之本までは1日がかりの旅だった。

 今庄宿は天保年間(1830~1844)には戸数290余り、うち旅籠55軒、茶屋15軒、娼屋2軒、縮緬屋2軒、鳥屋15軒とあった。

 ところで鳥屋とは何だろう、素直に鳥小屋と解釈していいのだろうか。

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 20分程走って午後0時39分に、左手方向の旧街道上に残る板取宿へ向かう地点に達したが、僕はそのままこの新街道をゆく。

 板取宿は日野川の支流板取川の上流域に位置し、四囲を山に囲まれた北国街道(東近江路)沿いの宿駅として栄え、結城秀康は越前入封と同時に国境の栃ノ木峠下にある当村の位置を重視し、ここに関所(口留番所)を置き、役人3人、足軽1人を常駐させた。

 宿には人馬継立て問屋、旅籠屋、茶店などが並び、幕末の戸数は上板取33、下板取20の計53戸(うち旅籠屋7、茶店3、問屋3、その他30)となっていた。

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 ここは街道の分岐点で、真っ直ぐ行くと敦賀まで15km、僕は左折してここから30km程の木之本を目指す。

 やがて道は山道となり道幅も狭くなり、急傾斜のヘアピンカーブでどんどん上がっていく。

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 北国街道最難関の栃ノ木峠に向かっているのだが、峠の標高は538mもあり険しい山道を抜ける峠の道となっていて、ハンドルを持つ手が自然と汗ばんでくる。

 栃ノ木峠は福井県における嶺南、嶺北を隔てる三つの峠の最南端に位置し、「酌子峠」、「虎杖崩」(いたどりくずれ)といった別名がある。

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 最難関の道はそれほど長くもなく、10分程手に汗を握ってどうやら峠の最高地点に達した。

 ここから再び二車線の広い道路となって、車は道なりに下っていく。

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 栃ノ木峠から10分程の午後1時1分に、椿坂峠下を掘って切り開いた椿坂トンネルを通過した。

 椿坂峠は中河内村と椿坂村との間にある大黒山(標高892m)の尾根を切り開いて道とした標高497mの峠で、ここは高時川と余呉川の分水嶺となっていて北国街道の難所の一つでもあった。

 この峠も戦国末期までは険しい小道に過ぎなかったが、1578年に北庄城主柴田勝家によって改修されたという。

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 柴田勝家一家のことなどを頭に浮かべながら、柳ケ瀬、中之郷と北国街道を走り抜けた。

 いつのまにか、目的地点の木之本に到着した。

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