越前と若狭の旅 その43 渤海国の使節のこと

 西近江路を海津に向かって走っている。

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 この辺りは敦賀市追分で、もしかすると愛発関がこのあたりにあったのかもと思って、車を停めてしばらくあたりの風景を眺めた。

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 西近江路を更に走ること5分程、大津まで76km、京都まで89kmと書かれた道路標識が前方に見えて来た。

 あと90kmもこの道を走れば京都であるが、奈良や平安時代にこの西近江路を計34回も行き来した渤海国の使節のことを急に思い出した。

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 渤海(698年〜926年)は、満洲から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて存在した国家で、高句麗の末裔の大祚栄により建国され周囲との交易で栄えた。

 唐からは「海東の盛国」と呼ばれていて、統一新羅の8倍の大きさがあり、かっての高句麗の4倍の領土を誇った。

 建国以後は唐や新羅の勢力を牽制する目的で日本への遣使を行い、日本側も渤海の使節を朝貢として扱って厚遇した。

 この渤海の日本への海上交通は「日本道」とよばれていた。

 上京府を起点とし、陸路塩州(現在のクラスキノ)に至り、そこから海上を進むというもので、海路は大まかに3ルートに分類することが出来た。

 一つ目が「筑紫路」で、塩州を出発した船は朝鮮半島東沿岸を南下し、対馬海峡を経て筑紫の大津浦(現在の福岡)に至るルート。

 当時の日本朝廷は大宰府を筑前に設置していた関係で、渤海使に対しこのルートの使用を指定していた。(距離が長く、難破の危険が大きいルート)

 二つ目が「南海路」で、南海府の吐号浦を起点とし、朝鮮半島東沿岸を南下し、対馬海峡を渡り筑紫に至るルート。(776年に船団が遭難し、120余名の死者を出してからは使用中止)

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 三つ目がこの図にある「北路」で、塩州を出発した後に日本海を一気に東南に渡海して、能登、加賀、越前、佐渡に至るルート。(晩秋から初冬にかけて大陸から流れる西北風を利用し、翌年の夏の東南風を利用しての航海で、航海術の進歩により海難事故は大幅に減少し、航海日数も短縮した。)

 この「北路」は原則として敦賀に入港することになっていて、日本はここに松原客館という迎賓館まで設けていた。(実際は風まかせの船旅で、敦賀に着くとは限らなかった。)

 渤海の使節は敦賀から陸路で西近江路を行き、都である奈良や京都まで行ったのである。

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 渤海のことを考えながら、車は午前8時45分頃に海津に到着した。

 この海津でまず、「日本のさくら名所100選」選定の海津大崎の桜並木を見学に行った。

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 あいにく花の季節は終わって、今は盛夏となっていて新緑の初々しさもない濃い緑の葉桜の並木である。

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 しかし琵琶湖の美しさには季節が無いようで、満々と水をたたえた琵琶湖の風景は、渤海の使節が行き来した頃から何も変わりないように思えた。

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