東京散歩Ⅱ その3 谷中墓地で「最後の将軍-徳川慶喜」に会う


 この徳川慶喜の墓が谷中墓地にあり、寛永寺から10分ほどの距離だという。

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 谷中墓地に入ってから、その辺りにいた元気のいい半ズボンのおばあちゃんに案内されながら歩き、この案内矢印の場所以後も引き続き一緒に歩いてもらって、広い敷地の墓地となっている慶喜公墓所まで辿り着いた。

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 最後の将軍はその後朝敵とされたが、自分を赦免した上華族の最高位である公爵を親授した明治天皇に感謝の意を示すため、自分の葬儀を仏式ではなく神式で行なうよう遺言し、また墓も京都で歴代天皇陵が質素であることを見て感動しその遺言により、徳川家菩提寺である増上寺でも寛永寺でもなく、ここ谷中霊園に皇族のそれと同じような円墳で祀られている。
 司馬遼太郎の「最後の将軍-徳川慶喜」は、慶喜の生い立ちから没するまで描いた小説で、1998年に「NHK大河ドラマ徳川慶喜」の原作となった。
 その中で司馬は徳川慶喜を、才知に富んだ人物ではあるが感情的に不可解な人物として描いている。

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 最後の将軍は代15代の将軍、もちろん最初の将軍は徳川家康である。
 1代家康、2代秀忠、3代家光、4代家綱、5代綱吉、6代家宣、7代家継と徳川宗家が幕府の将軍を相続し、8代吉宗になって紀州徳川家の吉宗が将軍となり、9代家重、10代家治と続いていく。
 11代は御三卿の一橋家から家斉が将軍となり、12代家慶、13代家定と続いていく。
 この家定の後の将軍職を争ったのが、紀州徳川家から14代将軍となった家茂と、その後に一橋家から将軍となった代15代将軍慶喜である。
 この時政争に勝利して14代将軍となった家茂は、将軍となった当時の年齢が12歳である。
 敗者となって、その後いろいろ悪戦苦闘しながらあの時代を精一杯生きていた最後の将軍慶喜は21歳であった。

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 この時政争を争った派は、家茂を推薦した南紀派と慶喜を推薦した一橋派である。
 幕末の時代で諸外国から開国を迫られ、対応を誤れば中国や東南アジアの国々と同じように事実上の植民地となる可能性の高かった時代に、日本国の政治を含む全ての権力のリーダーとなっていた徳川幕府の対応は大変なもので、今の時代であったら総理が1年交代で辞めざるをえないような時代背景だった。

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 開国を迫る諸外国列強に対して、幕府の対応と朝廷の対応を一覧表で比較する。
 征夷大将軍として政治の一切を朝廷から委任されている幕府は、最初は尊皇攘夷(尊王-敬幕-忠藩-攘夷)で通して鎖国を通していたが、列強の圧力に屈して1854年の日米和親条約を皮切りに、不平等条約とあとあと言われてしまった開港等の条約を結んで、開国の立場を強めていく。
 一方政治の一切を幕府に委任している朝廷の立場は幕府の開国の立場に批判的で、一貫して尊皇攘夷(尊王-敬幕-忠藩-攘夷)の立場をとっていく。
 1858年に一橋派に勝利して家茂は14代将軍となり、立役者の井伊直弼は大老となり、反対派の一橋派を安政の大獄によって弾圧していく。
 開国を指導した井伊直弼は、その後尊皇攘夷派により桜田門外の変で暗殺された。
 それを引き継いだ安藤信正は尊皇攘夷派を抑えるべく公武合体策を展開し、皇女和宮と将軍家茂を結婚する策に出る。
 この1861年当時、皇女和宮と将軍家茂はどちらも16歳だった。
 大変な時代の指導者だった安藤信正は公武合体の成功を見届けたのちに、尊皇攘夷派に坂下門外で襲われ、その春には失脚した。

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 その後、薩摩藩主島津久光の要求で、1863年7月「文久の改革」が始まる。
 慶喜は将軍後見職となり、再度政治の舞台に登場する。
 ここで、才知に富んだ人物ではあるが感情的に不可解な人物として司馬に描かれた慶喜の有名なエピソードが登場する。
 雄藩最高実力者の合議制であった参預会議の席上、泥酔した慶喜は主催者である中川宮に対し、島津久光・松平春嶽・伊達宗城を指さして「この3人は天下の大愚物・大奸物であり、後見職たる自分と一緒にしないでほしい」と暴言を吐いたという。
 この発言によって久光が完全に参預会議を見限る形となり、春嶽らが関係修復を模索するが結局体制は崩壊となった。(慶喜はこういう人です。)

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 最後の将軍慶喜は、1866年12月5日から1867年10月14日の大政奉還まで将軍であった。
 その1年間慶応の改革を推進し、横須賀製鉄所や造・修船所を設立し、ジュール・ブリュネを始めとする軍事顧問団を招いて軍制改革を行い、老中の月番制を廃止し、陸軍総裁・海軍総裁・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁を設置し、実弟・昭武をパリ万国博覧会に派遣するなど幕臣子弟の欧州留学も奨励した。
 大政奉還後、鳥羽伏見の戦いを経て慶喜は江戸に逃れ、寛永寺で謹慎中に幕府の全権を委任した陸軍総裁の勝海舟と東征軍の西郷隆盛との会見で、江戸城の無血開城となり江戸幕府は崩壊となった。

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 最後の将軍慶喜の評価は様々である。
 実父・斉昭の腹心・安島帯刀は、慶喜を「徳川の流れを清ましめん御仁」と評し、幕威回復の期待を一身に背負い、将軍位に就くと「権現様の再来」とまでその英明を称えられた。
 長州藩の桂小五郎は、「一橋慶喜の胆略はあなどれない。家康の再来をみるようだ」と警戒していた。
 坂本龍馬は、大政奉還後の政権を慶喜が主導することを想定していた。
 渋沢栄一、萩野由之は、慶喜の恭順により京都や江戸が焦土なることをまぬがれ、またフランスの援助を拒絶したため外国の介入がなかったとし、維新最大の功績者の一人であったと述べ、特に渋沢は安政の大獄と明治維新の際の謹慎の態度も高く評価している。
 鳥谷部春汀は、第二の関ヶ原の戦いを回避できたのは慶喜の功績であるなど、行跡・人格・才能とともに日本史上最大の人物の一人と記している。
 いろんな意味で超一流人物であった最後の徳川将軍の高貴な魂に深く頭を垂れ、この場を後にした。

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