近江街道をゆく その22 小谷城跡を歩く

 国友から小谷城跡に向かった。 
 戦国時代、「近江を制するものは天下を制す」といわれたほど、近江は天下を左右する重要な位置にあり、数多くの戦乱の場となり多くの城郭が築城された。
 小谷城は長浜市湖北町伊部(旧・近江国浅井郡)にあった戦国時代の日本の城で、日本五大山城の一つに数えられている。
 城は戦国大名浅井氏の居城として標高約495m小谷山(伊部山)から南の尾根筋に築かれ、浅井長政と信長の妹お市の方との悲劇の舞台として知られている。
 20分ほどレンタカーを走らせて小谷城跡に到着した。

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 城跡の入り口に、榛葉竹庭作の小谷城懐古の句碑が建っていた。

  将星更不顧輸贏     
     
  強別妻孥貫款誠     
               
  今日丘墟荒草裏     
                
  翠筠猶是掛清聲     


 通訳も掲載する。

 「浅井長政は敢然として勝敗を無視したのである。強いて妻子を城から脱出させた後、朝倉氏との信義を重んじ城を枕に討ち死にした。今日雑草の生い茂る城址の中に立ってみると嘗てその節を曲げなかった浅井長政にも似た竹が、今でも清らかな風声を挙げている。」

 史実はこうである。

 「浅井長政は1560年浅井家の当主となり織田信長の妹お市を娶り、織田家と同盟を結んだ。その後湖北から湖西にわたり威をはり、信長の覇業達成に協力した。しかし1570年信長の越前責めに際しては、父祖以来朝倉氏より受けた重恩に報いるために、小谷城で反信長の兵を挙げた。信長は一旦兵を引いて京に逃れたが、1573年7月の再攻撃で足利義明が信長に降伏し、室町幕府は滅亡した。朝倉義景が自刃するに及び、小谷城は全く孤立した。8月27日からの織田勢の総攻撃で、命運の尽きたことを悟った長政は、お市と子供3人を信長の陣に送った後、父久政と共に城を枕に討ち死にした。」

 これから浅井長政の思いが永劫に眠っている小谷城跡まで来るまで上がっていく。
 スタートする前に、山城跡から歩いて下ってきた50才くらいの面白い男に出会った。
 1時間ほどかけて歩いて城跡に登ってそして今下ってきた男は、ここはそう面白くもなかったが、彦根が良かったと言っていた。
 僕が司馬遼太郎の街道をゆくを参考に歩いていることを知って、彼も実は司馬の街道をゆくは読んでいると言って、彦根の埋木舎の描写が司馬の描いた表現にぴったりで、感心しながらこの舎を散策したと話していた。
 楽しみがまた一つ増えた。

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 男と別れ、小谷城跡の出丸のあった場所まで車で上がった。
 そこから番所跡まで歩いた。

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 ここには上図案内図が設置されていて、このような山城がここに築かれていたことが具体的にわかった。

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 この辺りからの景色は秀逸で、北近江の平原が遠くまで見通せ、その奥に琵琶湖が眺められた。

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 また歩いて行くと敵方に内通していた家臣の今井秀信の首が晒されていた石が置いてあった。

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 ここは大広間跡で、別名千畳敷と呼ばれ、長さ約85m、幅約35mで、前面には石垣が積まれていて、石組跡や蔵跡が確認されている。

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 ここは本丸跡で、構造については不明であるが、何層かの建物であったと想定されている。
 本丸跡でしばらく休んで、小谷城跡をゆっくり下って、また再び地上に戻った。

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