大阪散歩 その23  堺市の古墳散策を終える

 次に、倭の五王の中の済に比定されている允恭天皇陵に向かった。

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 允恭天皇は仁徳天皇の第四皇子で履中・反正天皇の弟にあたるが、反正天皇が跡継ぎを決めないうちに亡くなったため、臣下の要請で天皇に即位した。

 允恭天皇は病弱だったため当初天皇になることを拒んでいたが、のちに允恭天皇の皇后になる忍坂大中姫に懇願されて天皇に即位したという。

 允恭天皇は都を現在の奈良県明日香村あたりにあった遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)に移した。

 允恭天皇は初めて飛鳥に都を構えた天皇だった。

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 允恭天皇陵はBの位置にある。

 しかし、ここは応神陵よりも更に車を駐車する場所を見つけるのに苦労した陵で、2回ほど拝所の前を通ってこの辺の駐車できる場所を探したが、結局見つからないので、允恭天皇陵は横から見るにとどめた。

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 允恭天皇陵は、昔は他の陵のように周囲を水郷で囲まれていたと考えられるが、今現在はこの陵の周囲は普通の土である。

 倭の五王の最後で、最強とされる武と比定されている雄略天皇陵はCの位置であるが、ここはナビで検索しても出てこず、応神天皇陵と允恭天皇陵へのアクセスが想像以上に大変だったので、非常に残念ではあるが雄略天皇陵は諦めた。

 ところで、雄略天皇陵は高鷲丸山古墳とよばれている直径75mの円墳と、平塚古墳といわれる1辺50mの方形部分を合わせたものであり、円墳と方形部分の間は、幅20mの濠が巡っているという。

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 上の図は、古墳の大きさのベスト10である。

 倭の五王中最強とされる武王と比定されている割に、雄略天皇陵の大きさは全長100mにも満たず、まことに小さい。

 実際には違う人物の王陵ではないと誰でも疑ってしまう。

 ネットで調べたところ、雄略天皇陵は実は大仙陵だという説や、天皇陵の半分は間違った天皇に比定されているという説まであった。

 天皇陵は、実は主として江戸時代になって文献や言い伝えを基に定められたということで、それ以前はほとんどわからなかったという。

 江戸時代に尊皇思想の勃興とともに天皇陵探索の気運が高まり、本居宣長などが陵墓の所在地を考証したり現地に赴いたりして比定していたらしい。

 そんな不確かな雄略天皇陵のことは、あっさり諦めて何の悔いも残らなかった。

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 ただ、堺市の古墳散策を終えるにあたり、黄枠で囲った百舌鳥・古市の堺市が誇る古墳群が実に大古墳ランキングベスト10に6か所も入っているのは、河内王朝が当時いかに盛んな王朝であったかという確かな証拠ともなる。

 この5世紀に隆盛を誇った河内王朝は、葛城王朝の末裔の姫君を天皇妃に迎え彼らを外戚関係にすることによって、なおいっそう政権の繁栄と安定を図ったが、豪族葛城氏との関係は、5世紀後半からは敵対する関係に変わっていったようである。

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