近江街道をゆく その27 天守にて

 天守に入り、天守から北の方角を眺めた。

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 森の向こうの広大な平原は、城の建てられた当時は琵琶湖の内海だった。
 遥か向こうに山脈がありその一部が途切れているが、琵琶湖から途切れている場所を抜けて帆かけ舟が城に入ってきて、お殿様はその光景が大好きだったという。
 そういえば司馬遼太郎は「街道をゆく 近江散歩」の中で、中学生の頃に安土城に登った時の印象を書いていたが、城の眼前には湖が広がっていたという。
 それが近江散歩で再び安土城を訪れた時には、目の前には陸地が広がっていてがっかりしたという。
 戦後の食糧難時代の中で、「緊急食料増産計画」に基づいて、戦後昭和21年に琵琶湖の干拓事業が始まったという。
 その結果、安土城の前には陸地が広がり、その光景と同じように、この彦根城下もこのような風景となったのである。

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 僕がそのことに触れると、ガイドは待ってましたとばかりに資料を広げて、それから安土城の話となった。
 普通の山城は周りをほんの少しの石垣で囲っているだけだが、安土城は周りを高い石垣で囲った鉄壁の山城で、ある日突然石垣の塊が山の上にできたのだという。
 城は比叡山の方角に向かって建てられていて、信長が何を考えていたかわかる。
 信長は琵琶湖の舟運をこれから重要になる交通手段ととらえ、それに向けて安土城を瞬く間に建てたのだった。
 同様のことがこの彦根城にも言えるようで、城の後ろの街道よりも、城主は琵琶湖の交通を重視していたのだ。
 石田三成も同様で、佐和山城は琵琶湖に向かって開かれていて、城の表門は琵琶湖を見て建っていたという。
 織田信長やその家臣程度の武将には、この位の先見の明は備わっていたようである。

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 この後、天守の別の方角から、搦手門(からめてもん)のあった方角を眺め下ろして、搦手門の説明となった。
 この門は城門の一つで、せいぜい人一人が通り抜ける程度で、有事の際には領主などはここから城外や外郭へ逃げ、舟に乗って琵琶湖へ逃れたという。
 1階下に降りて、今度は梁の話である。

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 通常の梁は長い梁が1本で、その下の太い柱を中心に城の加重を支えているのだが、この梁は二本の梁を重ねていて、加重はこの梁で受けていて、柱は梁に比し極端に細くなっている。

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 こんな梁を使って、彦根城の天守はできあがっていた。

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