東京散歩Ⅱ その2 東叡山寛永寺にて


 子規庵から歩いて10分ほどで寛永寺通用門に到着した。

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 この門から現在の寛永寺に入った。
 寛永寺は1625年に慈眼大師天海大僧正によって創建された。
 徳川家康、秀忠、家光公の三代にわたる将軍の帰依を受けた天海大僧正は、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に寛永寺を建立した。
 天海は江戸と寛永寺との関係を、京都と比叡山の関係になぞらえて構想していた。
 平安の昔、桓武天皇の帰依を受けた天台宗の宗祖最澄が開いた比叡山延暦寺が、京都御所の鬼門に位置し、朝廷の安穏を祈る鎮護国家の道場であったことにならったものである。
 そこで山号は東の比叡山という意味で東叡山とされ、さらに寺号も延暦寺同様、創建時の元号を使用することを勅許され、寛永寺と命名された。

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 寛永寺は最盛期には現在の上野公園を中心に境内地約30万5千坪、寺領約1万2千石に及ぶ我が国最大級の格式と規模を誇った。
 現在の上野公園のほぼ全域が往時の寛永寺の境内であった。
 松坂屋上野店あたりから上野公園入口あたりの道をかつて「広小路」と称したが、これは将軍が寛永寺にある徳川秀忠らの霊廟に参詣するための参道であり、防火の意味で道幅を広げていたため、広小路と呼ばれた。
 上野公園入口付近には「御橋」または「三橋」と称する橋があって寺の正面入口となっており、その先に総門にあたる「黒門」があった。
 上野公園内中央を通り、大噴水、東京国立博物館方面へ向かう道がかつての参道であり、文殊楼、その先に法華堂と常行堂、多宝塔、輪蔵、根本中堂、本坊などがあった。

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 その周囲には清水観音堂(現存;清水観音堂は京都の清水寺になぞらえたもの)、五重塔(現存)、東照宮(現存)、不忍池の中島に建つ弁天堂(現存するが20世紀の再建;不忍池と中島の弁天堂は、琵琶湖とそこに浮かぶ竹生島宝厳寺の弁才天にならったもの)などが建ち、また36か院にのぼる子院があった。

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 ここは根本中堂(本堂)である。
 1698年に現上野公園内大噴水の地に建立された根本中堂は、1868年の戊辰戦争(彰義隊の戦争)の際に焼失してしまった。
 現在の根本中堂は、明治十二年に川越喜多院の本地堂を山内子院の大慈院(現寛永寺)の地に移築し再建されたものである。

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 ここに祀られている本尊は、最澄の御自刻とされる薬師瑠璃光如来像(秘仏;国指定重要文化財)である。
 そして根本中堂の裏に、幕末に徳川幕府最後の将軍となった徳川慶喜公が2ヶ月間に渡って謹慎した「葵の間」がある。

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 この日は非公開ということで、パンフレットだけいただいた。
 「葵の間」は二間続きの小じんまりとした部屋で、ここで1868年2月12日から江戸城無血開城の4月11日迄の二ヶ月間、最後の将軍は謹慎していた。

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