大阪散歩 その40  慈尊院を散策

 慈尊院は、816年に空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜った際に、この九度山の雨引山麓に高野山への表玄関として伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所(寺務所)を置き、高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場としたのが始まりである。

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 その後、空海の母・阿刀氏(伝承では玉依御前)がこの政所に滞在し、本尊の弥勒菩薩を篤く信仰し、空海はひと月に9度、20数kmに及ぶ山道(高野山町石道)を下って政所の母を訪ねてきた。

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 空海の母が死去した時に、空海は弥勒菩薩の霊夢を見たので、廟堂を建立し自作の弥勒菩薩像と母公の霊を祀ったが、弥勒菩薩の別名を慈尊と呼ぶことから、この政所が慈尊院と呼ばれるようになったという。

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 その廟堂が、この重要文化財となっている慈尊院弥勒堂である。
 この中には、国宝で秘仏となっている木造弥勒仏坐像が安置されているが、開扉は21年に一度とされている。(空海の命日が21日であることにちなむ)
 この慈尊院弥勒堂は慈尊院から高野山へ通じる高野山の表参道である町石道のスタート地点である。
 町石道には、高野山への道標(道しるべ)として、1町(約109メートル)ごとに町石と呼ばれる高さ約3メートル強の五輪卒塔婆形の石柱が建てられている。
 高野山上の壇上伽藍・根本大塔を起点として慈尊院までの約22キロメートルの道中に180基あり、その180番目の町石がこの寺の境内にある。

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 これからそこまで歩いて行く。

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 この階段の丁度中間地点の階段の右端に180番目の町石が建っているが、そこまでこの階段を登っていく。

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 そしてようやく目指す場所に180番目の町石を発見、その下にはお賽銭の小銭が数枚置かれていて、五輪卒塔婆形の石柱にはかなり明確に百八十町と読み取れる文字が刻まれていた。

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