大阪散歩 その45 高野山奥の院に入る

 これから高野山奥の院に入る。
 奥の院は高野山の信仰の中心であり、弘法大師空海が永遠に生き続けている壇上伽藍と並ぶ最高の聖地である。
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 一の橋から御廟まで約2キロメートルの道のりには、樹齢千年に及ぶ杉木立の中に、諸大名を初めとして著名人の方々の墓や無名の方々の墓までありとあらゆる方々の墓が、祈念碑や慰霊碑まで含めると20万基を超えて立ち並んでいる。
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 ここが一の橋で、ここから聖域である奥の院が始まる。
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 一の橋から少し歩くと、そこに司馬遼太郎文学碑が建っていた。
 文学碑に書かれている内容は、実によく高野山のことを言い表しているので、ここで全文を掲載する。

 高野山は、いうまでもなく平安初期に空海がひらいた。
 山上は、ふしぎなほどに平坦である。
 そこに一個の都市でも展開しているかのように、堂塔、伽藍、子院などが棟をそびえさせ、ひさしを深くし、練塀をつらねている。

 枝道に入ると、中世、別所とよばれて、非僧非俗のひとたちが集団で住んでいた幽邃な場所があり、寺よりもはるかに俗臭がすくない。

 さらには林間に苔むした中世以来の墓地があり、もっとも奥まった場所である奥の院に、僧空海がいまも生けるひととして四時、勤仕されている。
 その大道の出発点には、唐代の都城の門もこうであったかと思えるような大門がそびえているのである。
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 大門のむこうは、天である。山なみがひくくたたなずき、四季四時の虚空がひどく大きい。大門からそのような虚空を眺めていると、この宗教都市がじつは現実のものではなく、空に架けた幻影ではないかとさえ思えてくる。
 まことに、高野山は日本国のさまざまな都鄙のなかで、唯一ともいえる異域ではないか。

 奥の院はこの中で、こう書かれている。
「さらには林間に苔むした中世以来の墓地があり、もっとも奥まった場所である奥の院に、僧空海がいまも生けるひととして四時、勤仕されている。」
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 空海はこの奥の院で今も生前と同じように生活しているとされていて、空海のために毎日お膳に入れられて、三度三度の食事が運ばれているという。
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 この墓は薩摩藩島津家の墓である。
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 この墓は毎日新聞五代社長の墓である。
 江戸時代の殿様も、社長だった方も、ここに墓を造られた全員の方々が空海と共に、永遠の眠りについているのである。

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