能登(日本道)への道 その23 渤海の話Ⅲ

 日本との交易のために渤海が整備した道が中国の歴史書にも記されている「日本道」である。
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 「日本道」は上京の都を出て、そこからロシア沿海地方に出て日本海を渡るルートである。
 渤海使が船出した地点がクラスキノ遺跡である。
 ウラジオストクから車で6時間、クラスキノ遺跡はそこにある。
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 中国とロシアの国境付近、ロシア沿海地方にクラスキノはある。
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 クラスキノ遺跡から1本の道が上京跡へ向かって伸びている。
 この道が古道「日本道」の跡と見られている。
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 山から続いている真っ直ぐな1本の道を歩いて、渤海使達はクラスキノ遺跡にやってきたのである。
 そして、日本海を渡って日本に向かったのである。
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 海に面した平原の城壁に囲まれた一角にクラスキノ遺跡はある。
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 クラスキノ遺跡は1.2km四方の城壁に囲まれた小さな城で、門は3箇所あり、城壁の内側には寺や住居が建ち並んでいて、遺跡の北側で発掘が進められている。
 出土品はこの時点で数千点に及んでいて、その中には日本人がクラスキノに来た証拠となるようなものも見つかっている。
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 クラスキノ遺跡の南門のあったあたりからは日本海が臨め、ここらあたりは潮鳴りの音も聞こえてくる。
 クラスキノ遺跡を維持することは経費が膨大で大変なことだったが、渤海政府は日本への海路のためにこの城を造った。
 渤海にとって日本との交易は、とても大きな利益を生んだ。
 渤海は日本から生糸や絹製品や金や水銀などを輸入し、日本へは革製品などを輸出した。
 この交易のために使われた海の道(日本道)は高句麗の時代から開発されたルートで、陸路よりもむしろ安全なルートだった。
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 渤海の使節が日本にやってくるのは秋の終わりから冬の初めで、クラスキノでは9月の中旬を過ぎると安定した北西の風が吹き始め、この追い風に乗って渤海使を乗せた船は日本へやってきたのである。
 翌年5月頃になると日本海に南風が吹き始めてくるが、この風を追い風にして渤海使は帰って行ったのである。
 渤海使の活躍したありし日を思い浮かべながら、福良港をあとにした。

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