東京散歩Ⅱ その32 回向院にて

 回向院に向かって歩いて行くと、こんな案内板が立てられていた。
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 読んでみると、回向院の正門はかってこの位置にあり、江戸城側両国橋を越えると真っ正面に位置していて、あたかも両国橋が回向院参道の一部を成しているかのようだったと書かれている。
 東京大空襲で消失し、正門は現在の国技館通りに正対する位置に移された。
 その正門の位置まで歩いて行った。
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 ここが回向院正門である。
 回向院の境内に入っていく。
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 とても参道とは思えないようなこんな感じの参道が奥まで続いている。
 明暦3年(1657年)の大火はその後の江戸の街を大きく変えることになるのだが、この大火で焼死者は10万を越えたという。
 この頃は隅田川を渡るのは渡し舟だけで、思うように対岸に逃げることも出来なかったため、被害はこれほどになった。
 この後火事対策として、隅田川に架かる最初の橋が、下総の低湿な州でしかなかった本所深川と江戸を1661年に繋いだ。
 この大火の死者10万人は、当時牛島新田といわれたこの地に大穴を掘って埋められ、芝の増上寺から僧を呼び、無縁寺と呼ばれた寺を建てさせた。
 その後、回向院と名を変えた。
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 そこに明暦大火の死者を供養する塔を建てたが、一番手前にある塔が明暦大火焼死者供養塔である。
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 この供養塔の前で、明暦大火の死者の霊を鎮魂するために、深く頭を下げた。
 彼ら罪もない大勢の犠牲を伴って、江戸の街は少しずつではあるが安全性を考えた街として変化していくのである。
 回向院には珍しい人のりっぱな墓がこの奥にあるので、そこにも立ち寄った。
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 ここが、江戸時代の盗賊「鼠小僧次郎吉」の墓である。
 鼠小僧次郎吉は1823年以来10年に渡って99箇所の武家屋敷に122度も忍び込み、3000両余りも盗んだという。
 盗んだ金は飲み食いや遊興に使い、貧民に与えたという形跡はない。
 義賊に仕立てられていくのはずっとあとのことで、講談や芝居によって世間に「鼠小僧次郎吉」像が広がっていった。
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 ここには参拝の方も引切りなしで、墓の前に置かれている石を砕いて持ち帰ると金運に恵まれるということで、石を砕いて出来た本の微量の「石の粉」をティッシュに包んで持ち帰った。

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