東京散歩Ⅱ その38 富岡八幡宮を散策

 深川不動堂を出て、地続きで隣に隣接している富岡八幡宮に向かった。
 深川の町の形成と発展は、この地に富岡八幡宮が創建されたことによる。
 深川は隅田川の河口にできた低い州に過ぎず人の住める場所ではなかったが、徳川家光の時代に富岡八幡宮が建てられ、その門前に茶屋が出来、色町が建ち並び人々が集まってきて、深川の市街化が始まったのである。
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 深川という地名の起源はこの州の開拓者である深川八郎右衛門に負い、町の発展は富岡八幡宮の創建によるのである。
 八幡宮は横浜市金沢区にある「富岡八幡宮」を本社とし、別名を「深川八幡」ともいう。
 1627年に当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建され、周辺の砂州一帯を埋め立てて社地と氏子の居住地を開き、60,508坪の社有地を有していた。
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 深川の発展の中心として存在してきた八幡宮の本堂の前に立ったが、さほどの感慨も湧かなかった。
 ただ、この八幡宮は江戸幕府の対町民統治には非常に役に立ったようである。
 この神社の境内で行われていたものに、江戸勧進相撲と富くじがあるが、どちらも江戸町民の大衆娯楽として人気があった。
 江戸時代の相撲興業は京・大阪からはじまるが、富岡八幡宮は江戸勧進相撲発祥の地として有名で、1684年より春と秋の2場所の勧進相撲が許されていた。
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 本殿向かって右側に、相撲関係の様々な石碑が建っているが、他のところにもこの関係の石碑があったので、ここのものはそう印象にも残らなかった。
 ただこの境内で1684年以降約100年間にわたって本場所が行われ、その間に定期興行制や番付制が確立された。
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 またここには、代々の横綱の名を刻んだ石碑も建っていた。
 のちに本場所は本所回向院に移っていくが、その基礎は当宮で築かれていて、現在の大相撲へと繋がっていくことになる。
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 富岡八幡宮の中で一番りっぱに見えたのが、この伊能忠敬像であった。
 忠敬は近くの深川黒江町(現・門前仲町1丁目)に住んでいて、測量旅行出発にあたっては必ず八幡宮を参拝していたという史実により、この宮にこんなりっぱな銅像が建てられた。
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 伊能忠敬の紹介文があったので概略を紹介する。
 約200年前の1800年6月11日の早朝に、忠敬は当宮に参拝して蝦夷地測量の旅に出た。
 彼はこのときを含め全部で10回の測量の旅に出たが、遠国にでかけた第8回までは出発の都度必ず内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参拝して、無事を祈念した後に千住、品川宿などの測量開始地点に向かって歩き出した。
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 伊能忠敬については別のところにも触れているので、ここでは多くのことは取上げない。
 ただ、彼の住居とした深川周辺には忠敬居宅跡のほかにも、翁が天文学を学んだ暦局跡、歩測訓練を行なった道、忠敬翁終焉の地などが点在しているという。
 このうち忠敬居宅跡を、今日の最後の訪問場所として訪れた。
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 ここまで到達するのは思っていたよりもずっと大変で、やはりいつものように警察所や通りすがり地元の人に聞きながら、ようやくその最後の目的の場所に到達した。
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 もちろん居宅跡らしいものは何もなく、道路脇の電柱に「伊能忠敬住居跡」と書かれた石柱がが立っているのみだった。
 日本中を歩き回り、日本で最初に現代の地図とそう大差の無い正確な地図を作った男を頭の中に留めて置きたくて、この場所にしばらくたたずんでいた。

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