東京散歩Ⅱ その45 神田於玉が池を散策

 そして、翌朝となった。
 今日も朝食は、クリームパンとゆで卵とヨーグルトとコーヒーの簡素な食事である。
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 今日の日程であるが、司馬遼太郎の「街道をゆく 神田界隈」に沿って、神田界隈で取上げられた場所を中心に散策していく予定である。
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 まず、宿泊駅の信濃町から中央線に乗り、神田で降車し於玉ヶ池(おたまがいけ)跡を目指した。
 江戸期の古地図では景勝地として現在の不忍池程度の面積を有していたらしいが、江戸後期頃から徐々に神田山(駿河台)を削って埋め立てて宅地化され、て、1845年の時点で池自体も存在しない。
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 地元の人に聞きながら、ようやくお玉稲荷に辿り着いた。
 この神社に祀られているお玉が、於玉ヶ池という名の由来である。
 お玉は江戸期にこの地にあった茶屋の看板娘で、いい男二人に同じに愛され、悩んだあげくに当初は桜が池と呼ばれていた池に身投げして命を絶ったという。
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 それまで桜が池と呼ばれていた池は於玉ヶ池と呼ばれるようになり、池のほとりにお玉稲荷を建立して彼女の霊を慰めたという。
 僕は神社の掃除をしているこの人から、近くにお玉が池児童遊園があることを教えてもらった。
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 児童遊園の一角にはお玉ヶ池と書かれた標柱が建っていて、このあたりも江戸時代までは池の中だったのだろうと思いながら、当時の様子などをこの場にたたずんで想像したりした。
 この於玉ヶ池界隈には、儒者、漢学者などが多数住んでおり、江戸の学問の中心地としても栄えていたという。
 次に、このあたりにあったお玉ヶ池種痘所の痕跡を探した。
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 ここのビルの壁には、江戸最初のお玉ヶ池種痘所のあった場所と書かれた看板が取り付けられていて、その下にはこの界隈に文武の華が咲き誇ったと記された案内看板が掲げられていた。
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 お玉が池の周りには、市川寛斎の江湖詩社、大窪詩仏の詩聖堂、東條一堂の瑶池塾、佐久間象山の象山書院などがあったと記された案内看板を読むと、往事のこのあたりの栄華が偲ばれて、しばし歩みを失した。
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 お玉ヶ池種痘所跡の痕跡は、別のところにもあった。
 ここはお玉ヶ池種痘所跡近くの岩本町三丁目交差点角で、ここに東大医学部創立100周年記念に際して昭和33年に建てられた、「お玉ヶ池種痘所記念」と刻まれた石碑が設置されている。
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 お玉ヶ池種痘所は、東大医学部の源流なのである

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