東京散歩Ⅱ その46 玄武館跡から一橋家跡まで

 お玉ヶ池種痘所の次に、千葉周作の道場である玄武館があった場所に行ってみた。
 玄武館があった場所は千桜小学校が建っていたが、今は廃校となっているという。
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 この地図を目当てに、交番の方にも聞いたりして、何とか玄武館があった場所に辿り着いた。
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 この場所は2014年10月末日以降建設工事中で、このフェンスの中に玄武館があったのだが、その痕跡を示すものは、現在は石碑や立て看板くらいしか残っていない。
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 それらのものは、工事のために一時別の場所に保管中で、周辺整備終了後に再設置するということで、新たな設置場所については未定であるとの趣旨のお知らせ表示が、工事フェンスの左隅に掲げられていた。
 この地は玄武館跡でもあったが、その西隣に東條一堂が瑤池塾を開いて、儒学と詩文を教えていた。
 千葉周作は1825年当時には神田お玉ヶ池に八間四方玄関破風造りの立派な道場を構えて、門下総数は5~6000名を下らなかったという。
 玄武館は、玄武館四天王等の剣豪を輩出し、周作のあとも玄武館では坂本龍馬、有村次左衛門等の多くの志士が玄武館で武の技を磨いた。
 ここで文の一翼を担った東條一堂は、江戸の古学者亀田鵬斎、京都の儒学者皆川淇園に学び、玄武館の西隣に瑤池塾を開いて儒学と詩文を教授し、門人は3000余名を数えたという。
 次に護持院ヶ原を目指してその方角に進んだ。
 ここには護持院という大寺院があったが、小石川馬場辺から出た火で焼失し、その後は火除け地となり、護持院ヶ原と呼ばれた。
 護持院ヶ原は江戸町民の遊観所として使われていて、また森鷗外作品の「護持院ヶ原の仇討」の舞台としても知られている。
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 護持院ヶ原の痕跡を求めて右往左往したが、護持院ヶ原旧跡や火除地跡を示すものは一つも発見できなかったが、かなりの達成感はあり、この神田橋に達した時点で護持院ヶ原到着とした。
 次は徳川家斉や徳川慶喜を輩出した一橋家跡である。
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 首都高速下の道路を5分ほど歩くと、一ツ橋が見えてきた。
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 この橋を渡って、手前の方に歩いて行くと、鬱蒼とした森の一角に、一ツ橋徳川家屋敷跡の標柱が建てられていて、その横に説明の看板が立っていた。
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 説明看板には、屋敷がかつての江戸城一橋門内、現在の丸紅本社ビルから気象庁、大手町合同庁舎付近に至るまでの広大な敷地面積を誇っていたことや、田安家、清水家と共に御三卿の一つに数えられたことや、御三卿が、将軍に世継ぎがなく尾張、紀伊、水戸の御三家にも将軍となりうる候補がいない場合に、将軍候補を送り込めたといわれる家柄で、将軍家の身内としての待遇を与えられていたことなどが書かれている。

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