探検家列伝第4部 その3 探検家を超えた村上島之丞

村上島之丞1764-1808年)は、本名を秦檍丸という。
18世紀の中頃伊勢の神職の子として生まれ、寛政の改革の立役者である松平定信に見出されて数回に及び蝦夷地の探検を行なった北方探検家の一人である。

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彼は探検家としても名高いが、地理学や風俗学に長じており、また文章や絵画にも優れた才能を持っていたため、蝦夷地や特に彼の居住地となった函館についての見聞をその著書に著し、後世に残る貴重な資料となっている。
島之丞の業績や足跡を見ると、島之丞より10年早いがほぼ同じ時代に生まれた菅江真澄のことを思い出す。
菅江真澄(1754年〜1829年)は30歳から始めた約46年の旅人生の中で、まず東北(出羽・陸奥、下北・津軽)や蝦夷地(渡島半島程度)18年間歩き廻り、後半の28年を秋田で過ごし、秋田領内をくまなく歩き、秋田領内で没した。

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彼は、「菅江真澄遊覧記」と総称される旅日記を書いたほか、随筆や秋田藩の地誌なども著し、200冊以上に及ぶ著作のうち7712帖が国の重要文化財に指定されている。
話を村上島之丞に戻す。
島之丞は江戸湾や伊豆方面の測量・地図作成に参加したのがきっかけで、1798年に江戸幕府の命令で、近藤重蔵らとともに蝦夷地の探索員としてクナシリ・エトロフ島まで出かけた。
この年から10年間、島之丞はこの地で活躍し数々の業績をあげている。
彼の残した業績を区分けして見ていく。
業績の第一は、蝦夷地往来の見聞を「蝦夷見聞記」「蝦夷島奇観」「東蝦夷地名考」「蝦夷産業図説」等に著わしたことである。

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アイヌの生活を観察して書かれたこれらの書は、現在もアイヌの習俗を知る貴重な資料となっている。
この中でとくに「蝦夷島奇観」およびその付録には、箱館の全景、亀田番所、市街図、風俗、尻沢辺出土の土石器など寛政年間の箱館が詳細に記録されていて、往時を知る唯一の資料とされている。
板碑(貞治)の碑も、彼によって再発見され「蝦夷嶋奇観」などで紹介された。

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板碑(貞治)の碑は1752年に函館大町の榊伝四郎が井戸掘りの際に発見した安山岩製の板碑(板石塔婆)で、同時に出土した頭蓋骨を収めた丹塗の小箱や鐙の金具や九曜紋入りの刀の鍔などを合わせて、称名寺に納め供養されていたもの。
碑面には、一般的にみられる梵字の種子の代わりに、右に「阿弥陀如来礼拝図」左に「阿弥陀如来来迎図」の画像が刻まれ、碑文として「貞治六年丁未二月日且那道阿慈父悲母同尼公」と記されている。
この碑文にある「貞治」の年号は、南北朝時代の北朝のもので、「貞治六年」は南朝の後村上天皇の1367年にあたる。
板碑は、鎌倉から室町にかけて多く製作された死者の追善供養のための塔婆であり、本州では主に寺院や街道に建てられているが、北朝年号のある板碑が何故蝦夷地へ運ばれ埋められていたのかは不明とのこと。
北海道最古の金石文として貴重な歴史資料であり、道有形文化財に指定されている。

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業績の第二は、住み着いた函舘付近の住民に対して直接に農耕の指導や植林、椎茸の栽培などの指導まで行っていたことである。
「男子たるものの志」を果たし、アイヌに対して量秤の統一などを指示し、作物の栽培法などを指導した最上徳内級の人物である。
業績の第三は、測量の力量を十分に発揮し、優秀な人材を育てたことである。
測量関係の書では「函舘表よりヲシャマンベ迄里程調」「蝦夷値の図」などの本を出し、またアイヌ語地名の研究にもすばらしいものを遺している。
島之允の門弟では間宮林蔵が特に有名で、彼はカラフトを含む蝦夷図の作成に大きな業績をあげている。
また養子となった村上貞助は、あのゴローニンからロシア語をいとも簡単に習ったり、林蔵口述の「北夷分界余話」と「東韃地方紀行」を編集したり、その天分を遺憾なく発揮した。

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