探検家列伝第4部 その5 近藤重蔵(探検家として人間として、尋常でないレベルに達した人)

近藤重蔵1771年〜1829716日))は、江戸時代後期の幕臣で探検家である。間宮林蔵、平山行蔵と共に文政の三蔵と呼ばれている。

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1771年に身分の低い貧しい武士である御先手組与力・近藤右膳守知の三男として江戸駒込に生まれ、山本北山に儒学を師事した。
幼少の頃から神童と言われ、8歳で四書五経を諳んじ17歳で私塾「白山義学」を開くなど並々ならぬ学才の持主で、生涯に60余種1500余巻の著作を残している。
成人に達する頃には身長は180センチにも達し、色は浅黒く筋骨も逞しくなった。
重蔵26歳の時、湯島聖堂で老中松平定信が広く人材を登用する目的で学術試験を催し、この試験で遠山金四郎(当時43歳)を含む3名が合格となったが、重蔵は最優秀の成績で合格した。

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この頃幕府は松前藩の悪政とロシアの南下政策に強い脅威を抱いており、200名近い幕府役人が調査のため蝦夷地に派遣されていた。
この調査隊の先発隊長となったのが近藤重蔵である。
当時重蔵は28歳、主要な配下として水戸藩士木村謙次(47歳)、蝦夷地調査経験者村上島之丞(39歳)それに蝦夷探検の第一人者として認められていた最上徳内(44歳)らがつき従った。
一行は函館を出発し根室に到着、クナシリで各種調査をし、クナシリからエトロフ島を目指して渡航の機会をうかがっていたが、1カ月後ようやくその目的を達成した。
国後水道が比較的穏やかで風も凪いでいた日、重蔵を隊長とするアイヌ人を含む十数名の者たちは3艘の蝦夷船に分乗して、クナシリ北端の地アトヤ岬からエトロフ島を目指して漕ぎ出た。
しかし船が国後水道に差しかかったころ、凪いでいた海が突然荒海に変わった。
その様子を重蔵は、友人に送った手紙の中で以下のように伝えている。

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「荒潮の強さは津軽海峡の難所の2倍もある。逆波は四面にわき立ち、うねりは5メートル近く深い水の底をつくり、近くの友舟の帆も見えないほどであった。粗末なアイヌ舟のこと、それに慣れた彼らさえ必死に祈りのことばをささげながら舟を操る有様だ。あわや水死を覚悟したのも一度や二度ならず。」
この時重蔵は櫓を漕ぐ7人のアイヌの前で着籠姿になり、戦場で戦っている武士のように決死の覚悟を示し、海神に祈願してからアイヌたちを叱咤激励し、10時間にもわたる激浪の海を乗り切り、エトロフ島の南端のベルタル岬に着岸した。
同じく最上徳内が率いた船も無事ベルタル岬に到着した。
翌日エトロフ島の丹根萌の丘に着くと、重蔵は徳内と相談しその丘の上にエトロフ島が日本領土であることを示す一本の標柱を建てた。

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標柱には「大日本恵登呂府」と記し、その下にアイヌをはじめ全員の名を書き連ねた。
蝦夷地巡視後江戸に帰ると、重蔵らの進言もあり東蝦夷地の幕府直轄が決まった。
重蔵は一番重要な勘定役となりエトロフ担当を命じられる。
重蔵は前回(1798年)のエトロフ渡航で小型のアイヌ船を使って命を落としかけたので、大型船を利用しての航路開拓を高田屋嘉兵衛に依頼した。
嘉平はクナシリ島の高台から海流を見定めたりアイヌ舟を海に流したりして、潮の流れを長時間かけて探って、ようやく一本の安全な航路を発見した。

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2年後の1800年、鎧・兜に身を固めた近藤重蔵は、高田屋嘉兵衛率いる5艘の船団(1500石積みの辰悦丸とそれに従う4隻の船)を引き連れ、日の丸を掲げた船団の先頭に立って再びエトロフの地を踏んだ。
5艘の船には米・塩・漁具・衣類などアイヌに与えるべき物資が満載されており、すぐさま彼らにふるまわれ、アイヌの人達は再度来航した重蔵と嘉兵衛と徳内を、旧来からの友人のように大歓迎した。
エトロフ島では毎年秋大量のサケ・マスが河を上って来る。
重蔵一行は持参した漁具をアイヌに与えて網でとる手法を教え、3年後の1803年には1万8千石(350万トン)の漁獲高になり、金額に換算すると1万両にもなったといわれている。
またサケの油やしめ粕は交易の重要な商品となり、大きな船が次々にエトロフを訪れるようになった。
アイヌの人たちは、生産・労役に応じて正当に物資を渡されたので、これまで貧窮を極めていた島民の生活も一変していく。

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重蔵は島をいくつかに分け村とし、名主を置いて日本風の生活を勧めた。
幕府の指示に従いアイヌに和人風の生活を奨励し、髭を剃らせ髷を結わせたところ、名も日本風に変える者が次々と現れてきた。
蝦夷地の中で幕府の直轄政治が最もよく行われたところとして、最果てのエトロフ島開拓は賞賛されることになった。
1807年には天塩川や石狩川上流の単独探検や札幌〜小樽間の踏破など、蝦夷地を五度に渡って探検した。
重蔵は28歳から37歳までのおよそ10年間、北海道開拓のために尽くし、その功により、御書物奉行に任じられ12年間務める。
時には寝るのは1時間か2時間、書物を読み続け1昼夜に7冊の本を写したこともあったという。
近藤重蔵は探検家としても人間としても、尋常ではないレベルに達している人であった。

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