「播磨と淡路のみち」 その27 山崎城跡

山崎には午前9時半頃に到着した。
山崎は黒田官兵衛ゆかりの地で、官兵衛は最初姫路に城を構えていたが、そこを秀吉に譲って、播磨宍粟郡の山崎の城に居城した。
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この山崎の城は、山崎町中心部にそびえる標高324mの山上にある篠ノ丸城で、官兵衛は篠ノ丸城が中途半端な山城で不便なため、山が平地に対し崖一つで接している南の端を削って大地にして新城を築いた。
これが今の山崎城址で、後の城主たちに引き継がれて明治におよんだ。
篠ノ丸城には最初から行く気もなかったので、今の山崎城址を見ていくことにした。
この町に関する地図も資料も持ち合わせていなかったので、山崎歴史郷土館で「山崎歴史まち歩きマップ」をもらって、それからまち歩きに出た。
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マップは山崎城郭内範囲と山崎城下町範囲の二つに大きく分けて作られていたが、そう詳しく山崎を散策する気は最初から無かったので、黄☆印の表御門と山崎城跡にある紙屋門くらいを見るに留めることにした。
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まず、表御門跡に行った。
表門の碑が山崎小学校の校門のところにあるが、表門は西向きの高麗門の高い造りの門で、 槍を立てたまま通ることができたという。 
司馬さんも安田章生氏と山崎に来ている。
旧制時代、この付近では県立中学は龍野にしかなく、山崎には県立女学校が置かれていて、安田章生氏の父親の青風氏はこの女学校の国語の先生だった。
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安田章生氏は小学校時代を山崎で過ごし、この山崎小学校は彼の母校であった。
しかし、安田氏が通っていた頃の校門はこういうコンクリート式のものではなく、お城の大手門のような城門だったという。
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司馬さんや安田さんの足取りを追いながら、これから山崎城跡の遺構として残っている紙屋門まで歩いていく。
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そして、紙屋門(陣屋門)に到着である。
高麗門という形式の門で、安田氏はこの門を見たとたんに、これが昔の小学校の門だと確信した。
安田氏の小学校時代が、この場所で甦ったのである。
ここで山崎城について説明を加えると、城の別名は鹿沢城、山崎陣屋と呼ばれていて、3万石以下の城を持たない無城大名、陣屋大名の屋敷であった。
城として建設されて二の丸・三の丸・武家屋敷・城下町を持っていたが、本丸に代わって陣屋の設置が許されたのみだった。
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陣屋門をくぐって中に入ると、そこには鹿沢城本丸跡の石碑が建っていた。
実際は陣屋で、最初から本丸など存在しないのだが、無城大名にとってはたとえ陣屋でも、実態は城の本丸なのである。
山崎にほんの少し立ち寄って、龍野に向かって再び南下した。
 

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