探検家列伝第4部 その8 伊能忠敬その3(「大日本沿海輿地全図」まで)

第六次測量(1808年~四国)のため、1月25日に江戸を出発。
前回は約2年にわたる測量で風紀に問題が起きた為、忠敬は第六次測量を四国だけにとどめ、淡路島を経由して3月21日に鳴門から徳島に入り、南下して4月21日に室戸岬到着、29日に高知に入った。

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続いて海岸線に沿って北上し、8月11日に愛媛・松山到着、瀬戸内海の島々を測量しながら東進し、高松、鳴門を経て1121日に大坂に戻った。
四国各藩は測量隊のために道を整備するなど協力的で、精度をあげるため支隊が内陸部縦断測量を行った。
年明け1月18日に江戸へ帰着。
第七次測量(1809年-1811年~九州前半)のため8月27日に江戸を出発、全国地図の完成に向けて最後の大仕事となる九州遠征が始まった。
西日本の測量は、体力が衰え始めた忠敬には過酷で、3年で終わるはずが内陸部の調査が加わったり、思いのほか四国が広かった為3年経っても九州は全く手付かずだった。
中山道、山陽道を通って北九州の小倉で年を越し、ここをスタート地点に定めた。
九州に入った忠敬が娘に出した手紙には「(10年も歩き続け)歯は殆ど抜け落ち一本になってしまった。もう、奈良漬も食べることが出来ない」と書かれていた。

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一行は太平洋側を南下して2月12日に大分、427日に宮崎・日南に到着、大隅半島を回って6月23日に鹿児島へ到達した。
一行はさらに南下して薩摩半島南端の山川港(現指宿市)に着き、そこから種子島、屋久島に渡る機会をうかがったが、悪天候により渡航を断念、北上して天草諸島を測量した。
天草には小島がたくさんあり測量は時間がかかり隊員の体調もよくなく、今回の九州測量はここで切り上げることを決定。
帰途大分で年を越し、中国地方の内陸部を測量しつつ上京、江戸に着いたのは5月8日、第4次と同じく1年9月ぶりの帰宅となった。
第八次測量(1811年-1814年~九州後半)のため18111125日に江戸を出発。
幕府は種子島・屋久島測量にこだわっており、忠敬は前回の九州遠征から半年後、年も変わらぬうちに第二次測量に出発することになった。
江戸からはるかに遠い薩摩藩の実態を、測量を通して把握しようという幕府の思いもあった。忠敬は66歳となっており、出発前に息子景敬に隠居資金の分配など遺言同然の書状を残す
など不測の事態を覚悟した出発だった。
年明け1月25日に小倉到着、内陸部を通って鹿児島・山川港に再び至った。
そして船で屋久島に向かい、3月27日に無事上陸を果たすと、測量隊は北と南の二手に分かれ、13日間で測量を終えた。

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風待ち後、4月26日に種子島に上陸、半月で測量終了し5月23日に山川港に戻った。
その後、内陸部を小倉まで北上し、博多、佐賀、島原半島などを測量し、今回の測量で2度目の越年を佐世保で迎えた。
1813年(68歳)の新年、忠敬は「七十に近き春にぞあひの浦・九十九島をいきの松原」(69歳の春を相浦で迎えたが、さらに99歳まで生きて測量を続けたいものだ)と詠んだ。
忠敬は九十九島、平戸、壱岐島を経て対馬に上陸し、5月21日に測量を終えた。

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続く五島列島では忠敬が本隊を率い、副隊長の坂部貞兵衛が坂部隊を率いて、東西の海岸を南下していった。
ここで万全の信頼を寄せていた坂部がチフスに冒され、7月15日に息を引き取ったのだ。
翌日、忠敬は両隊を集めて葬儀をおこなったが、忠敬は深く落ち込み「鳥が翼を取られたようだ」と打ちのめされた。
8月15日から長崎半島を一周し、小倉より帰途につき、姫路にて3度目の越年。
1814年、京都から長野に向かい、中山道を通って江戸に戻ったのは実に913日間ぶりとなる5月22日で、過去最長の長期測量となりこれが最後の遠征となった。
郷土では忠敬の長男景保が病死していた。
九州の測量データから地図を作成していたある日、蝦夷探検で間宮海峡を発見した間宮林蔵が訪ねてきて、忠敬は1週間かけて測量技術を林蔵に伝授した。
第九次測量(1815年~伊豆諸島)は忠敬が70歳という高齢のため、病没した坂部貞兵衛の代わりに支隊長となった永井甚左衛門に測量を託し、一行は1815年4月27日に江戸を出発した。

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永井らは三宅島、八丈島、新島、大島などを一年かけて測量し、翌年4月12日に江戸へ戻った。
第十次測量(1815年〜1816年~江戸)1815年2月3日出発。
各街道から日本橋までの間を測量するため、第九次測量と並行して江戸府内を測る第十次測量を実施したが、これは半月ほどで片付き2月19日に帰宅。
1816年8月8日から1023日まで、最後となる江戸府内の地図作りにたずさわった。
忠敬は71歳となり、17年かけて歩いた距離は4万キロ、地球を完全に一周した。
こうして翌1817年(忠敬72歳)、1800年の蝦夷地測量から17年がかりで集めた全国の測量データを用いて全日本地図の作成作業が始まった。
忠敬が測量を果たせなかった蝦夷地北西部の測量データは、彼の最も有名な弟子となった間宮林蔵が持って現れた。
あとは各地の地図を一枚に繋ぎ合わせ、球面の地球データを平面に移す数値の誤差の修正計算だけとなった。
しかし、忠敬は持病の慢性気管支炎が悪化し、1818年4月13日、弟子に見守られながら73歳で世を去った。
忠敬の死から3年後の1821年7月10日、江戸城大広間で幕府上層部が見守る中、景保や忠敬の孫・忠誨(ただのり/15歳)、弟子たちの手で日本最初の実測地図「大日本沿海輿地全図」が広げられた。

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それは3万6000分の1の大図214枚、216000分の1の中図8枚、432000分の1の小図3枚という、途方もない規模のものだった。
 

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