「天塩川」の旅 プロローグ その1

 天塩川の旅は、「終わりの始まり」の旅である。それは最後の目的の川であり、同時に新たな旅の最初の目的の地をも河川流域に含んでいる。

 最後の目的の川とは、僕が日本の最長10河川の源流から河口までの旅を走破しようと企画した「源流の旅プロジェクト」最後の川という意味である。

 
この旅は、石狩川の旅で垣間見た松浦武四郎と旅する旅であり、来年度から始める「グレートジャーニーⅠ(街道を行く;国内編)のスタート地点を確認する旅であり、同じくグレートジャーニーⅡ(北海道でのイトウ釣り+オホーツク街道)の準備運動となる旅でもある。

 そういう意味で、「天塩川の旅」は始まりの旅となる訳である。

 天塩川(てしおがわ)は、北海道北部の上川総合振興局・留萌振興局・宗谷総合振興局の各管内を流れ日本海に注ぐ一級河川。天塩川水系の本流である。

 長さ256kmは日本で4番目に長が、大きな支流が少ないため、流域面積は5,590km²で10番目にとどまる。

 名前はアイヌ語の「テシ・オ・ペッ」(梁(やな)・ある・川 → 梁のある川)からで、かって中流域(中川郡美深町恩根内付近に梁状の岩が川を横切っていたことから由来するもの。天塩の漢字は表音文字で、当て字である。

 なお、この岩は水運に支障があったことから、河川改修の際に撤去され、今は無い。
 
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 天塩川は、北海道士別市南東の紋別郡滝上町との境界に位値する北見山地天塩岳付近に源を発する。

 名寄盆地
を北へ流れ、天塩平野に出て天塩郡天塩町と幌延町の境界を西へ流れる。海岸目前で南に向きを変え浜堤に沿って10kmほど流れ、天塩町の市街地前で日本海に注ぐ。

 この旅への準備は、実は去年の年末から年始にかけて始まっていた。

 石狩川の旅で垣間見た松浦武四郎と旅する旅となる「天塩川」の旅、その第一歩として、
新潟市美術館での「片岡球子と日本画の巨匠たち」の新年企画展で、岩橋英遠「憂北の人」を見た。(想像以上の迫力で、探険家松浦武四郎が眼前に出現した。)
 
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 絵には、蝦夷地探検時代の武四郎と北海道地図、それに北海道に生息するヒグマなどの生き物達が活き活きと描かれている。(絵自体は北海道立近代美術館の所蔵品。)

 絵のモデルとなった松浦武四郎(まつうら たけしろう、1818年3月12日(文化15年2月6日) - 1888年2月10日)は江戸時代、幕末から明治時代にかけて活動した日本の探検家である。

 雅号は「北海道人(ほっかい・どうじん)。蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案した人。

 僧となった後、蝦夷地探検に出発。

 その探索は択捉島や樺太にまで及んだ。1855年に蝦夷御用御雇に抜擢され再び蝦夷地を踏査、「東西蝦夷山川地理取調図」を出版した。

 明治に入った1869年には開拓判官となり、蝦夷地に「北海道」の名を与えほかアイヌ語の地名をもとに国名・郡名を選定した。

 松浦武四郎は天塩川水域も探険していて、アイヌ人4人と探険した道中のことを「天塩日誌」として後世に残している。

 この松浦武四郎が、この天塩川の旅での案内人となる。

 また天塩川の旅は、「グレートジャーニーⅠ(街道を行く;国内編)のスタート地点を確認する旅でもあり、そのスタート地点を日本最北端の地である稚内市の宗谷岬にするという計画を既に組んでいる。

 ここにはオホーツク文化の担い手となったオホーツク人の残した遺跡が沢山残っている。

 司馬遼太郎街道を行く」シリーズの第38巻目が名著「オホーツク街道」であるが、そこには宝石のようにオホーツク遺跡の数々が紹介されている。

 僕の来年からの旅である「グレートジャーニーⅠ(街道を行く;国内編)は「オホーツク街道」から始める予定で、スタート地点である稚内市にある幾つかの遺跡も時間が許せば訪れる予定である。

 稚内市の北には宗谷海峡が広がり、海峡を挟んでオホーツク人達が渡ってきた樺太(サハリン)の大地が延々と続く。

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 こんな地図を見ると、すぐにでも樺太へ渡りたくなる。
宗谷海峡は日本名で、国際的な名称は、1787年にここを通過したフランスの探検家ラ・ペルーズの名からラ・ペルーズ海峡(英語:La Pérouse Straitである

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