アマゾン河の旅 その8 インカ最後の秘都ビルカバンバ

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(ビルカバンハ(一番左のエスピリトウパンパと書いてあるところがインカ最後の都です。)゙はワンカカイエからコンセビダヨク川を下っていく。↑

大きくして見てください。資料は高野淳「インカを歩く」から抜粋)


インカ帝国の歴代皇帝の名前である。

1 マンコ・カパック 2 シンチ・ロカ 3 ヨケ・ユパンキ 4マイタ・カパック 5 カパック・ユパンキ
6 インカ・ロカ 7 ヤワル・ワカ 8 ピラコチャ 9 パチャクチ 10 トパ・インカ 
11 ワイナ・カパック 12 ワスカル 13 アタワルバ (1代から13代まで)

 実質的にはインカ帝国は、コンキスタ・ドーレス(征服者)であるフランシスコ・ピサロに絞首刑というやり方で処刑された、第13代アタワルパで閉じることになる。

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                                                                 (カハマルカの戦い  ↑)

 彼はピサロに騙され、部屋いっぱいの金銀財宝を国中から持ってこさせられた上、命まで奪われたのである。

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                                         (ピサロがこの部屋いっぱいの黄金を要求、皇帝をここに閉じ込めた。↑)

1533年8月29日カハマルカ(温泉地で有名)でのことである。

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                                                     (カハマルカ(温泉地で有名)です。湯気がでてます。 ↑)

 ピサロはアタワルパ処刑後、壊滅状態になったインカ帝国を維持するため、第11代皇帝の末子であるマンコ・インカ(一般にはマンコ2世と呼ばれている。ピサロが初代皇帝の名にちなみ名づけた。)を傀儡皇帝とした。
 
 そして、ピサロの略奪が始まる。かれの軍隊はクスコの神殿に満ち満ちていた金銀をかたっぱしから金の延べ棒に変え、民家を略奪し、インカの婦女を強姦した。クスコの町は廃墟と化したという。

 ピサロは大発見時代の征服者の典型である。彼はスペインのエストラマドゥラ市のツルヒーヨで生まれた。私生児であった。
  
 父はゴンザーロ・ピサロという歩兵大佐であり、母はフランシスカ・ゴンサーレスというこの町の売春婦であった。

 ピサロは教会の前に捨てられていた子で、メス豚の乳で育ち、読み書きを習ったことがなく、豚飼いを本業とし、幼少時代は惨めで貧しい生活をしていたという。

 大発見時代という時代の中で、彼は次々と階段を上り詰めて行き、ロス・アタビロス侯爵と名乗るまでになる。アステカ王国を征服したエルナン・コルテスは、ピサロの遠縁に当る。

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                                                     (ピサロ侯爵です。↑)

 大発見時代と言われているが、征服された世界の住人にとっては、楽園の崩壊の時代であることに間違いはない。

 マンコ2世は、傀儡皇帝に我慢出来ずに、1536年、クスコから逃げ出し、18万の大インカ軍を率いて、サクサイワマンの砦を主戦場にスペイン軍と戦う

 しかし、スペイン軍はインカに敵対する部族を味方に付け、インカ軍を撃退した。

 敗れたインカ軍はウルバンバ川の聖なる谷間オリャンタイに逃れ、スペイン軍を迎撃する。

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                                                                     (現在のオリャンタイです。) ↑

 マチュピチュは、マンコ2世がオリャンタイを捨て、インカ最後の都となったビルカバンバへ向う時に、インカ自身の手によって、藁葺きの屋根に火が付けられた

 この時、マチュピチュの大多数の住民はマンコ皇帝と共にビルカバンバへ逃れた、太陽の処女たちと神に仕える神官たちは、燃え盛るマチュピチュの都と運命を共にしたのである。

 マンコ2世は、その後、ビトコスを中心とするビルカバンバ地方の拠点から、スペイン軍に反抗を繰り返す

 マンコ2世が味方にしていたスペイン人の裏切りで殺された後も、その息子のティトゥ・クシ(「インカの反乱」という書物を口述した。)マンコ2世の末男のツゥパク・アマルの手で、反撃が続けられた。

 しかし、1572年、アマゾンに敗走していたツゥパク・アマルがクスコで処刑され、この時を持ち、ビルカバンバを拠点にしてスペインに抵抗していたインカの歴史が終焉する。

 ビルカバンバは、今はエスプリトウ(霊魂の意味)・パンパと呼ばれ、ジャングルの中に眠っている。
    
 この都はビンガムでも発見できず、半世紀後、アメリカ人の探検家ジーン・サボイによって広く世に知られるようになった。

 スペイン軍がビルカバンバへ行くには、大変な行程が強いられた。まず、スペイン軍はオリャンタイからベロニカ山群のパンティカリャ峠を越える

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 そこから、ウルバンバ川支流のサンタマリア川を下り、ウルバンバ川合流点にあるチャウリャイの集落まで行く。

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                                                                 (こんな激流を下る。↑)
   
 そこにかかるチュキチャカ橋を渡り、今度はビルカバンバ川を遡上する。

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 ビルカバンバ川の上流地には、反乱インカの拠点都市だったビトコス現ビルカバンバなどの集落がある。

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                                              (こんな釣り橋を遡上したのです。 ↑)

 インカ最後の都となった旧ビルカバンバへは、ワンカカイエの集落から、アブリマク川の支流であるコンセビダヨク川を下っていく。

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  コンセビダヨク川がアブリマク川と合流する地点に、インカ最後の秘都が眠っている。


 ここまでの行程で、アマゾン河の支流である3つの川を上り下りすることになる。
 
 インカ最後の秘都ビルカバンバは、空気がおいしく、温暖で快適な気候に恵まれた土地であった。食料も豊富だったという。ここの背後は、もうアマゾンのジャングルである。

 ここで、反乱インカは森や川にすむアンデス族と交流し合いながら、インカの復権を目指して、暮らしていた。

 1572年6月24日の朝、幾つもの山を越え渓を越え、スペイン軍はビルカバンバの都へ入城した。

 しかし、既に宮殿は焼け落ち、食料庫は壊され、インカ最後の秘都ビルカバンバは廃墟と化していた。アマゾンに逃げていた皇帝は捕えられ、処刑された。
    
 大河アマゾンの源流地に栄えた、インカ帝国の、これが終焉である。
 
 そして、ここで、僕のアマゾン河の旅も終焉を向える。

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 (起源前1800年以前に栄えたと思われるコトシュ遺跡「交差した手の神殿」壁面レリーフ  泉靖一教授教授を団長とする東京大学がアンデス地帯学術調査団が発見した。

 インカの末裔の人たちは、西洋的な文明に翻弄されながらも、あの古代魚ピラルクーのようにしたたかに、この地に息づいて来た文明を引継ぎ、悠久の歴史を生きて来たのだと思うと、感慨無量です。

 それでは、また次回、ミシシッピー河でお会いしましょう。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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