能登(日本道)への道 その7 院内勅使塚古墳へ

実際には行かなかった七尾城跡の代わりに、七尾市街地から南南西へ6kmJR徳田駅から徒歩5分の位置にある院内勅使塚古墳に行った。
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車で20分ほどでJR徳田駅に到着、駅で電車待ちをしていた七尾東雲高の生徒と思われる男子高校生達に院内勅使塚古墳までの道順を聞き出して、さっそく歩き出した。
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こんな王朝時代の香りのするようなのんびりした田舎道を100m程歩くと、そこに院内勅使塚古墳があるという。
古墳の存在は江戸時代から知られており、「能登志徴」に「飯川の穴倉」として紹介されているとのこと。
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歩くこと100m程で、院内勅使塚古墳が見えてきた。
昭和44年の七尾市史編纂事業にかかる墳丘・石室の実測および周溝の確認調査により、古墳は一辺約23m、高さ3.7m、墳丘が二段の方墳で、幅約6mの周溝があることがわかった。
石室が発掘されているということなので、そこまで歩いていく。
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石室の見える位置まで歩いてきた。
石室は長さ約12m、幅約2m、高さ約2mで、30個以上の巨石を組み合わせて構築されている。
造りを見ると蘇我馬子の墓とされる7世紀初頭に築造された石舞台古墳に似ており、この院内勅使塚古墳は発掘された須恵器などから、古墳時代の終末期にあたる7世紀前半ごろ築造されたと推定されているので、石舞台古墳と同じ技術で造られたのだろう。
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中に入って見たが、石舞台古墳より小さいがそっくりの造り方がされていた。
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類似する古墳を見てもわかるとおり、当時の大和朝廷は能登地方にも勢力を広げていて、その支配下に置いていた。
能登半島は当時日本国の玄関口として、高句麗やその末裔が造った渤海国と使節団の受け入れや交易などを行っていて、大きく言えば大陸や朝鮮半島の玄関口となっていたのである。
この古墳の築かれた時代には、七尾湾沿岸の海岸段丘上に小規模の古墳がたくさん造られ、その中でもこの古墳は群を抜いた規模であり、それらの中心的存在であった。
なおこの墓の被葬者だが、能登の国造(であった能登臣(のとのおみ)氏の可能性が考えられている。

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