探険家の歴史 第2部 長江の旅 その1 上海にて(クイズ付き、ご回答ください!!)

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長江文明がもたらした稲作伝来の道 ↑


 安田喜憲氏の著書「長江文明の謎」によれば、長江文明は今から6千3百年前に誕生したという。

 地球の寒冷化によるこの地域の乾燥化の中で、長江流域の人々は城塞を築きため池を作った。

 稲作を守るために水のコントロールを始めたのである。都市型集落の成立であり、文明の誕生と推測される。

 この地に成立した文化には、河姆渡文化(約7千年前から5千5百年前)、良渚文化(約5千2百年前から4千2百年前)などがある。


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 良渚文化時代には稲の蓄えなどにより貧富の差が生まれ、階級社会が既に出来ていた。


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良渚文化遺物、王の権威の象徴、玉そうです。 ↑


 長江下流域の歴史に比べ、上海の歴史はさほど古くない。

 上海は黄哺江(長江支流)に面する内陸港湾都市で、10世紀以前は沼、湿地などが多い漁村で、港町として発展してはいたが、そう大きな町ではなかった。

 上海が繁栄するきっかけになったのは、阿片戦争である。上海の租界の誕生そのものが、阿片戦争の敗北の賜物である。


 当時のイギリスは中国からお茶を買っていたが、代わりに売るものがないので、莫大な貿易赤字となっていた。

 そこで、インド国内でケシの栽培を行い、阿片工場まで作って、中国に阿片をほとんど暴力団まがいのやり方で売った。

(中国高官に賄賂を贈り、大砲で脅して白昼堂々密輸貿易を行い、大儲けしたのです。)

 さすがの中国皇帝もこれには激怒し、「自国民の時間の損失」であるとし、異国からの悪影響を排除するために、阿片禁止令を発布した。

 イギリスは禁止令に対抗して、議会での議決後、開戦を決行した。


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阿片から祖国を守れ、中国近代史のヒーロー、林則徐は・・ ↑


 議会では「人道上問題になるような品の悪い行為、国の恥となる。」という良識派もいたが、僅かの差で開戦派の勝利となり、阿片戦争は始ったのである。(これは事実です。)

 イギリスほか列強諸国はまたたく間に、上海外灘に租界を作り華麗な街に変身させて行った。

 この上海に、1862年幕末の志士高杉晋作が、幕府の船である千歳丸に乗り、幕府の使節として訪問した。(外国に占領された上海の姿を見て、晋作は、愛国心に目覚め、倒幕の決意が固まったという。)

 文豪芥川龍之介も上海を訪れていて、けっこう上海を気に入りながらも、「悪の都会、魔の都」と「上海遊記」に書いている。


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 街を歩くと、アナタ、アナタと言って売淫が寄ってくる。鴉片(アヘン)も公然と吸っている。

  「小有天」という酒楼で出会った愛春などその道の女性達の印象からか、彼は「東洋と西洋の入り混じった、堕落した危険な雰囲気を醸し出す街」と、上海の街を表現している。

 確かに上海には美人が多く、チャイナドレス姿の女性が似合う街でもある。


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 今の上海の常住人口は2000年の調査で1640万7700人。市の面積は全国の総面積の0・06%にすぎないが、全国の総人口の1・27%が暮らしている。2000年の上海の人口密度は1平方キロ当たり2588人にも達した。

  

 長江文明を作った人々ゆかりの苗族の、そのまた末裔の人々は長江下流地に越の国を作った。(呉越同舟の故事で有名な越のことです。)

 一説には、越の国の一部の人々は日本に渡り、越という地域に住んだという。

 つまりは古事記に高志(越)の国と記述されている地域である。

 今は越前・越中・越後という地名として残っている。

 大国主の命はこの高志(越)の国の奴奈川姫という賢く美しい姫に求婚する。

 奴奈川の里は、今の新潟県姫川流域に実存する。



 その越の国にまつわる美女の話は中国にもあった。


 中国の4大美人は、西施(セイシ・紀元前500年頃)、王昭君(オウショウクン・紀元前30年頃)、貂嬋(チョウセン・180年頃)、楊貴妃(ヨウキヒ・700年代)の4人とされている。

 紀元前500年頃、長江下 流の地域に、呉(呉服という語の起源の国、三国志にも出てくる。)と越(長江文明の末裔の作った国。)という国があった。

 越は今の紹興に都を構え、呉は今の蘇州に都を構えていた。


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蘇州です。 中国のベニスかな ↑


 この呉と越は長年の宿敵で、復讐のため、越王句践が呉王夫差へ送り込んだ美女が、対夫差用に訓練された傾国のエキスパート「西施」である。


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 春秋時代末期における覇権争いは熾烈で、勝利と敗北は紙一重であった。

 呉越の戦いはその有様が故事となり後世に伝えられるほど激しいものだった。

 紀元前495年、夫差の父呉王闔閭(こうりょ)は越王句践(こうせん)との戦いに破れ、その時の傷が悪化して死に至る。

 夫差は薪の上で寝ることで、その恨みを決して忘れぬよう歯を食いしばって耐えたことから「臥薪(がしん)」という言葉が生まれた。

 紀元前494年,夫差(ふさ)は精鋭を率いて夫椒(ふしょう)の戦いで越軍を打ち破った。

 越は呉の属国となることで和を乞い,越王句践,その参謀范蠡(はんれい)は夫差の奴隷として命をとりとめた。

 句践が今度は呉への復讐を心に決め、部屋につるした肝を嘗めてその苦さを味わい、夫差への復讐を誓ったことから「嘗胆(しょうたん)」という言葉が生まれた。


 そして、越は西施を使い、傾国の美女作戦を開始する。

 西施はただの薪売りの娘であったが,織り布を渓流に浸していたところを見出され,宮殿につれてこられた。

 たぐいまれな顔立ちと整った美体ではあるが、ただの田舎娘である西施は、范蠡の手で後宮での作法,儀礼,歌舞,音曲を徹底的に叩き込まれ、巷の楼閣で秘技・嬌態なども修行し、完全に夫差好みの美女へと変身していった。

 西施を献上した時、夫差は疑いもせず、絶世の美女をすぐに気に入ったという。

 それから夫差は、西施のためならどんなことでもする、ただの恋する男になっていく。


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西湖10景の一つ三潭印月 西湖のほとりに夫差は西施のために愛の館を作った。  ↑


 越は富国強兵に力を傾け、呉では夫差が覇気を失って西施と戯れていたため,国力には雲泥の差ができてしまった、

 紀元前475年,句践は呉を滅ぼし、夫差は自害した。


 西施のその後には二つの説がある。

 ① 傾国の美女の運命として処刑されたという説。

 ② そして、もう一説は、実は恋仲だった范蠡(はんれい)と晴れて夫婦となり、幸せな生活を送ったという説である。



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