能登(日本道)への道 その22 渤海の話Ⅱ

これからロシアに200箇所以上ある渤海の遺跡の一つを、ロシアのウラジオストク郊外まで訪ねていく。
最初に向かったのが、渤海時代の山城の跡である。
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ここは山城の跡で、山城は4mの石垣で囲まれていたということで、NHKの杉浦知紀アナウンサ-の手の高さの2倍位の高さがあったことになる。
渤海人はこのような山城を幾つも造り、山城を拠点として農業や狩猟で生活していて、住むには絶好の場所だった。
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さらに、この下の川を舟で自由に移動していたと考えられている。
山城の近くには渤海人の住居跡も見つかっている。
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これは渤海人の使っていた煙を床下に通す床暖房装置(オンドルのようなもの)で、中国の渤海遺跡にも同じようなものが見つかっている。
このような高い技術を持っていた渤海人は、隣接する靺鞨地域に技術を浸透させていった。
そして彼らは共存するようになり、文化も混ざり合っていった。
渤海は中国を中心とする農耕社会と狩猟を中心とする北方社会の中間点にできた国家で、農耕社会の農産物と狩猟社会の毛皮などの産物を中継して栄えた交易国家でもあった。
具体的に同じような国をあげれば、シルクロード沿線に栄えた国々となる。
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8世紀中頃になると中国で内乱が起き、渤海との緊張関係も緩和されたので、渤海使の役割は外交から交易を中心にしたものに移っていった。
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 渤海使は、密、朝鮮人参、毛皮など様々なものを日本にもたらした。
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中でも毛皮は憧れの的で、当時の絵巻には毛皮をまとった人が描かれており、宮中でも毛皮が使われていたという。
人々は渤海の使いが現われると争うように交易を行ったことが当時の書物に記載されている。
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また先進の文化も伝えられ、宣明暦という当時の最新の暦は、江戸時代までおよそ八百年に渡って日本で用いられた。
唐や新羅に対する軍事上の連携から始まった交流は、北方産の毛皮と日本の絹などとの交易が主体となり、華麗な宮廷外交を展開し、菅原道真と漢詩の応酬をした大使父子も登場した。
 
 

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