奈良散歩 その2 上司海雲の墓

上司海雲は、司馬さんの「街道をゆく 奈良散歩」の中では、街道をゆくの挿絵を担当して取材旅行にも同行した須田剋太画伯を庇護し続け、須田画伯と父と子のような関係を持った方として紹介されている。

司馬さんが須田画伯と空海寺を訪れる場面も「街道をゆく 奈良散歩」には書かれていて、上司海雲の眠る空海寺の五輪塔に、須田さんが駆け寄るように近づいて野の花をそなえたシーンが印象的に描かれていた。

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 その墓を、場所もはっきりとわからないのにどうしても訪れたくて、空海寺の墓地の中を歩き始めた。

しかし10分ほど歩きまわっても、広い墓地のどこにその墓があるのかわかろうはずもなく、空海寺の方に墓の位置を聞いてみた。

この方が空海寺住職をされている森川隆行さんであることは事前に見ていたネット情報で知っていた。

「墓地の真ん中辺にある五輪の塔で、墓には観音院と書いてありますよ。」と教えてくれた。

この情報だけで探せるだろうと思って又も10分ほど墓地の中を歩き回ったが、それでも上司海雲の墓には辿り着けなかった。

もう1回戻って、再度住職に聞いた。

森川住職は説明しても分からないと悟ったらしく、今度は簡単明快な地図を書いてくれ、それに説明も加えてくれた。

どうやら、やっと上司海雲の墓に辿り着けそうである。

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  ここを真っすぐ、十何重かの石塔を目印に歩いていく。

石塔の横にフェンスがあって、フェンスの中に入っていくのである。

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  このフェンスも、その中の墓も、前に探していた時はまったくその存在すら気づかなかった。

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  このフェンスの中に、近代の東大寺別当さんたちが眠っているのである。

歩きながら、少しずつ上司海雲を紹介していく。

彼は1906年に生まれ1975年に死んだ華厳宗の僧侶で、第206世東大寺別当となり、その後文化人サロンを形成して観音院さんの名で親しまれた方である。

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  一群の墓の一番左前が上司海雲の墓である。

彼は東大寺塔頭持宝院に生まれ、1939年に東大寺塔頭観音院住職となり、東大寺学園中学校・高等学校校長、東大寺執事長、華厳宗宗務長等を歴任し、1972年に華厳宗管長・東大寺206世別当となった。

文学や芸術を愛し、奈良に移住した志賀直哉を中心としたサロンにも出入りした。

  志賀が奈良を去ると、残されたサロンを上司海雲が引き継ぐ形となり、杉本健吉(画家)、会津八一(歌人・早大教授)、入江泰吉(写真家)、須田剋太(洋画家)などが出入りした。
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  左後ろの墓が、上司海雲の墓である。

上司海雲は東大寺観音院の住職だったので観音院さんと呼ばれて親しまれていて、その墓にも観音院と刻まれている。

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   1971
年には七人会(入江泰吉、上司海雲、熊谷九寿、杉本健吉、鈴木光、須田剋太、水島弘一)を結成し、奈良の芸術文化に力を注いだ奈良の恩人であった。

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   司馬さんと須田さんがしたように、上司海雲の眠る空海寺の五輪塔に野の花をそなえたかったが、ここにはそういうものはまったく無く、心に中で奈良の大恩人である上司海雲に花を手向け合掌し、静かに空海寺を去った。

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