東京散歩 その7 樋口一葉と菊坂旧宅

 最後に赤字ウの樋口一葉旧宅と、赤字エの樋口一葉ゆかりの伊勢屋質屋に行ってみた。
 樋口一葉菊坂旧居跡は路地裏の見つけにくい場所にあるが、入り口に目印の看板があり、何とか辿りつけた。

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 入り口から路地に入ると緑色の井戸が目に入るが、この井戸が一葉一家使用の有名な井戸である。
 この井戸の左側にあった庭付きの貸家に、明治23年(1890年)9月(一葉が18歳の時)に母と妹と3人で住み始めた。
 それから1年8ケ月後、明治25年5月5日に妹が一部屋欲しがったという理由で、今度は井戸の右側にあった貸家に転居、前の家に比べて一部屋多かったという。

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 後から住んだ家の後に現在建てられている家が、井戸の右手にある家である。
 この井戸やこの建物を見ながら、当時の一葉一家の生活を偲んでみた。
 一葉はこの地で18~21歳の2年11ヶ月、洗い張りや針仕事などの内職をして、母と妹の3人で貧しい生活をしていた。
 それとは別に、ここから10分ほどの安藤坂にあった「歌塾萩の舎」に通い、師匠中島歌子の内弟子となったが、実態は小間使同様に使われていたようだ。
 半井桃水(朝日新聞の小説記者)に出会い小説の指導を受けたのもこの頃で、明治25年(1892年)年に処女小説「闇桜」が桃水主宰の文学雑誌『武蔵野』に掲載され、小説家としてデビューを果たした。

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 まるでこの井戸の水のように一葉の才能は溢れ出て、留まるところを知らなかった。

 この菊坂の家でどんな作品が生まれたのか気になったので調べてみた。
 1892年4月「改進新聞」に「別れ霜」、「武蔵野」に「たま襷」発表。
 同年7月、「五月雨」を「武蔵野」終刊号に発表。
 同年9月「経つくえ」を「甲陽新報」に発表。
 同年11月、「うもれ木」を「都の花」に連載。(はじめて原稿料をもらう。)
 1893年 2月、「都の花」に「朧月夜」を発表。
 同年3月、「文学界」に「雪の日」を発表。

 その後一葉は、下谷龍泉寺町・本郷丸山福山町へと転居を繰り返し、明治29年(1896年)肺結核によりわずか24歳という短い生涯を閉じた。


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 次に、赤字エの樋口一葉ゆかりの伊勢屋質屋に行ってみた。
 伊勢屋質屋は万延元年(1860年)の創業で,昭和57年に廃業した。
 伊勢屋質屋は樋口一葉と大へん縁の深い質店で、菊坂町の貸家に母と妹と移り住んでから度々この伊勢屋に通い,苦しい家計をやりくりしたという。
 明治26年に下谷竜泉寺町に移ってからも,終焉の地(現西片1-17-18)にもどってからも,伊勢屋との縁は続いたという。

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 一葉が24歳の若さで亡くなった時,伊勢屋の主人は香典を持って一葉を弔ったと伝えられている。

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