奈良散歩 その16 戒壇堂の広目天 

 なら仏像館を出て、再び入江泰吉旧居まで行った。

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  ここから黄線の道を通って、戒壇院と二ツ池(大仏池)と正倉院と転害門を回った。

まず、最初に戒壇院である。


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 戒壇院の前に行くと、階段の手前に境内図があった。

奈良時代の754年に、聖武上皇は光明皇太后らとともに唐から渡来した鑑真から戒を授かり、翌年に日本初の正式な授戒の場として戒壇院を建立した。


当時は戒壇堂・講堂・僧坊・廻廊などを備えていたが、江戸時代までに3度火災で焼失、戒壇堂と千手堂を含む現在の形となった。


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 階段を上がると門があり、この門の正面に戒壇堂がある。

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 ここが戒壇堂である。

 この中に、とても楽しみにしていた仏像がある。


 司馬さんの「街道をゆく 奈良散歩」の中で、「私は、奈良の仏たちのなかでは、興福寺の阿修羅と、東大寺戒壇院の広目天が、つねに懐かしい」とまで書かれた広目天がある。


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 戒壇堂の中は薄暗かったが、ここにこのような配置で四天王が配置されていて、部屋の左手奥に、目指す広目天が置かれていた。

今回の奈良の旅は、司馬遼太郎の「街道をゆく 奈良散歩」の日程と、会津八一が第2次世界大戦中に早稲田大学文学部芸術学専攻の学生二十余名と奈良・京都を旅した「奈良・京都研究旅行」の日程から作り出したと前に記した。


会津八一の早稲田大学時代の教え子に金田弘という詩人がいる。


兵庫県龍野市出身で、早稲田大学文学部で会津八一に師事して東洋美術史を学び、西脇順三郎、高橋新吉らと親交を結んだ。


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 彼の書に、「会津八一の眼光 春秋社 1992年」がある。

書に表紙に使われている写真は、東大寺戒壇堂の広目天である。


この書から、会津八一が第2次世界大戦中に早稲田大学文学部芸術学専攻の学生二十余名と奈良・京都を旅した「奈良・京都研究旅行」の日程を抜き出して、旅の資料として使った。


金田弘は会津先生を思う時、会津八一の「鹿鳴集」の中の一首である、「毘楼博叉 まゆね よせ たる まなざし を まなこ に み つ つ あき の の を ゆく」と詠んだ歌が脳髄を光のように横切るという。


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 「会津八一の眼光」の中で、金田弘は会津八一が広目天について述べたことを、下記のように記している。

「この広目天は 、何事か眉をひそめて、細目に見つめた眼ざしの深さに、不思議な力があって、私はいつもうす暗いあの戒壇の上に立って、此の目と睨み合いながら、ひとりつくづくと身に染み渡るものを覚える。まことに忘れられぬ目である。やがて此の堂を出て、春日野の方へ足を向けても、やはり私の目の前には此の目がある。何処までもついて離れぬ目である。」


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 金田弘は、「会津先生にとってのこの広目天の目つきが、私にとっては会津先生の目がそのまま広目天の目つきになった如く、私から離れないでいるのである。」と記している。

金田にとっては、それほどまでに会津八一の眼は広目天の眼に似ていた。


 「その眼に見据えられたなら、たちまち縮み上がってしまうような、心の底まで見通すかのごとき鋭さ」が、会津八一にはあった。


 司馬さんと並んで今回の旅の両輪である会津八一の視線をしっかりと受け止めて、東大寺戒壇堂を離れた。


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