甲州街道と佐久平みち その24 海野宿
今日8月2日(金)は、2019年夏の旅「甲州街道と佐久平みち」の事実上の最終日である。
これが今日の日程であるが、今日は1日佐久平と言われた地域を走り抜け、そこを歩く旅となる。
お世話になった「かわせみの宿」に別れを告げ、佐久平へ出発する。
まず海野宿に向けて出発するが、ここまで17km、30分程の道のりである。
午前9時頃には海野宿の白鳥神社境内へ到着した。
海野宿は、軽井沢と長野を結ぶ北国街道(北国脇往還、現在は国道18号旧道)の中間あたりにあった宿駅で、もともとは平安・鎌倉時代の海野氏の領地として栄えた城下町である。
佐久平一帯は平安初期に滋野天皇と呼ばれた滋野氏が出たところで、その後継である海野氏がこの海野から出て佐久平一帯を支配していた。
この神社の境内に「木曽義仲挙兵の地」の案内看板が立っていた。
1181年6月、後白河法王の第二皇子である以仁王の発した平家討伐の令詔に応じ、木曽に旗揚げした木曽義仲は、丸子の依田城を経てここ白鳥神社前に広がる白鳥河原に挙兵した。
義仲のもとに馳せ参じたのは、樋口氏など木曽四天王をはじめ、地元佐久平の海野、祢津、望月、小室等滋野一族を中心とした東信濃の豪族と、西上州の武家団が集結した。
その数は2千騎とも3千騎とも言われている。
当時の海野宿は滋野一族の宗家となった海野氏の本領であり、経済・交通・軍事の要衝となっていた。
それではこれから海野宿を歩いていく。
海野宿は現在市道田中・西海野線の一部となっていて、延長650 m、幅10 mの旧北国街道の両側には旅籠屋造りや蚕室造りや茅葺屋根などの、当時使用された約100棟の歴史的な建物が残っている。
通りを歩いていくと、町並みガイドの方なのであろうか、この宿は屋根に防火用の壁である「うだつ」があるのが特徴だと指で示してくれた。
なるほど、立派なうだつが上がっていた。
海野宿の資料館もあったが、時間がないのでここは素通りした。
宿場の通りの中央には、江戸時代から変わらぬ位置にある「表の川」とよばれる用水堰が流れていて、向かい合わせの家ごとに洗い場が設けられている。
この用水堰は、江戸時代には馬に水を飲ませたり旅行者が足を洗ったと考えられている。
気分よく佐久平のボスである海野氏の居城となっていた海野宿を10分程歩いて、次の目的地である望月宿へ向かった。
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