探検家の歴史 第4部 その2 最上徳内(今世紀における最も卓越した探検家)

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 最上徳内はシーボルトに、「尊敬すべき老人」「尊敬すべき老友」で「今世紀における最も卓越した探検家」と高く評価された北方探検家である。

 徳内は1754年、出羽国村山郡楯岡村(現在の山形県村山市楯岡)に生まれ、1836年10月14日に、82歳で亡くなっている。


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 実家は貧しい普通の農家であったが、農業のかたわらたばこ栽培を営み、徳内は青年期には隣町谷地の津軽屋に奉公し、仙台・南部・津軽まで行商に出かけたといわれている。

 この頃のエピソードとして、父が徳内に向かって「男子たるものは、若干にして生涯の志を立つべきものである。汝どのような心構えがあるか。」と聞いた際、徳内は「蝦夷一円、本朝開闢以来人倫の教導なしと聞いているが、願わくば一度かの地に入り、かの土人に本朝農民のごとくに耕作の諸事を教え、蝦国を上国の風に習わしたい。」と語ったという。


 26歳の時父が死去し、翌年1781年に江戸へ出て幕府の医官山田図南の家樸となり、医術や数学を学び、29歳の1784年には本多利明の音羽塾に入門し、天文学や測量、経済論などを学んだ。


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 この頃、幕府ではロシア南下に対する備えや蝦夷地交易などを目的に、老中の田沼意次らが蝦夷地(北海道)開発を企画し、北方探索が行われていた。

 1785年には師の本多利明が蝦夷地調査団の東蝦夷地検分隊への随行を許されるが、利明は病のため徳内を代役に推薦、徳内は山口鉄五郎隊に人夫として属する。

 蝦夷地では青島俊蔵らとともに釧路から厚岸、根室まで探索、地理やアイヌの生活や風俗などを調査し、千島、樺太あたりまで探検、アイヌに案内されてクナシリへも渡った。


 越冬しての翌1786年の探検は、徳内が従事した蝦夷地探検の中でも重要な探検である。

 徳内は単身エトロフ島に渡り、ここでロシア人のジョヨ・サスノスコイ・ニケタの3人と出会い、千島が列島であることや欧州地誌を知ることになる。

 徳内はここではただ一人の日本人だったが、アイヌの人達やロシア人3名と歌い踊り、あたたかな三か国人交流となった。


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 徳内はロシア人をクナシリ島に来ている隊長の青島俊蔵に会わせ、時期の遅れないうちにウルップ島の最北端まで渡り、日本で最初にウルップ島に渡海した人物となった。

 同年に江戸城では10代将軍・徳川家治が死去、反田沼派が台頭して田沼意次は失脚、田沼派は排斥される。

 その後松平定信が老中となり、寛政の改革を始めて蝦夷地開発は中止となる。

 徳内と青島は、江戸へ一旦帰還した。


 その後徳内の蝦夷地追放や、1789年のアイヌの蜂起によるクナシリ・メナシの戦いや、青島の背任獄中死事件が起こった。

 徳内は1790年には無罪となり、普請役となり蝦夷地へ派遣される。


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 4度目の蝦夷上陸では、クナシリ、エトロフからウルップ北端まで行って各地を調査した。

 調査のあいまに交易状況を視察して量秤の統一などを指示し、アイヌに対して作物の栽培法などを指導し、厚岸に神明社を奉納して教化も試みた。

 徳内は、父の前で宣言した「男子たるものの志」を、ここでしっかり果たすことになる。


 1792年には樺太調査を命じられ、5度目の蝦夷上陸。

 カラフトの地理的調査などをおこない、鎖国の国法に違反してロシアや満州と密貿易する松前藩の動きや、彼らに搾取され続けている樺太アイヌの実態も察知することとなる。

 10月には松前へ戻るが、この年に伊勢の船頭・大黒屋光太夫ら日本人漂流民一行の返還のため、ロシア使節のアダム・ラクスマンが根室へ来航した。

 徳内は滞在を延期して越冬し、翌年江戸へ戻った。


 1798年には老中の戸田氏教が大規模な蝦夷調査を立案し、徳内は7度目の蝦夷上陸となる。


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 幕臣の近藤重蔵の配下として、択捉島に領有宣言を意味する「大日本恵登呂府」の標柱を立てる。

 1805年、遠山景晋のもとで8度目の蝦夷上陸。

 1808年2月、徳内は樺太詰を命ぜられて4月に宗谷から渡樺し、シラヌシ(本斗郡好仁村白主)から東の亜庭湾方面に向かい、クシュンコタン(大泊郡大泊町)に上陸。

 その後、樺太警固の会津藩兵約800名も渡樺してきた。


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 6月クシュンコタン(大泊)を発ち能登呂半島の東海岸沿いに南下、樺太最南端・西能登呂岬を回って西岸を北上しトンナイ(真岡郡真岡町)に上陸し、その後シラヌシにて山丹舟を目撃。

 7月には南に向かう会津藩兵の一行とともに樺太を離れた。


 ドイツ人医師シーボルトが1826年に江戸へ参府した際に、徳内はシーボルトを訪問した。

 学術や北方事情などを話題に何度か会見して意見交換し、徳内は間宮林蔵が調査した樺太の地図を与えたり、アイヌ語辞典の編纂などに協力した。

 徳内は、ロシア人のジョヨに親切にされ日本で最初にウルップ島に渡海した恩を、ここで相手は違うが同じ志を持つシーボルトに返したような気がした。


 1828年にシーボルトが帰国する際に国禁の日本地図持ち出しが発覚し、シーボルト事件に至るが、徳内は追及を免れている。



 晩年は江戸の浅草に住み、1836年に死去、享年82だった。

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