越前と若狭の旅 その10 紫式部公園散策

越前国府推定地跡の見学を終え、次に紫式部公園を目指した。

平安の世の996年、紫式部の父である藤原為時が越前守(現在でいう県知事)に任ぜられ、母親を幼くして亡くしていた紫式部は京から父とともに越前国へ下った。

越前国の敦賀にはかつて松原客館という渤海使節の滞在する外交施設があり、すでに渤海国は滅亡していたが松原客館には宋人が滞在しており、藤原為時は漢詩の才能と交渉力を買われて越前守に任ぜられたとも考えられている。

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紫式部が生涯でただ一度だけ京から生活の地を移したのが越前国で、998年の春ごろに帰京するまでの期間を紫式部は越前で過ごした。(997年の秋もしくは冬に帰京したという説もある。)

紫式部とその父親は、先ほど見学した越前国府推定地跡のどこかにあった屋敷で越前での短い生活を送ったのである。

紫式部公園は国府推定地跡から南西に1.5km程行ったところにあった。

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公園は平安時代の貴族の住居を模した3000坪の広大な敷地を誇る寝殿造庭園で、霊峰・日野山をはじめとする武生盆地を囲む山々を借景とし、池や築山を配して造られている。

池の向こうには、小さく黄金色に輝く紫式部像が見えている。

この像の近くまで歩いて近づいた。(紫式部が武生にいたのは23才の頃)

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 紫式部像は越前富士と呼ばれる日野山をみつめていて、紫式部像を囲むように紫式部の歌碑が建立されていた。

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 像の下部を見ると、夜間照明用のスポットライトが4灯設置されていて、台座には越前に向かう国司の一行や宮廷での場面を描いたレリーフがはめ込まれている。

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これは、紫式部像を囲んでいる歌碑の一つである。

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歌の意味とその背景は、歌碑の近くの説明版に記されていたので紹介する。

結局式部は、父為時の国守としての任期がまだ終わっていないのに、藤原宣孝と結婚するため父を残して単独で都へ帰ることになる。



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越前の国府で短い日々を過ごした紫式部を思いながら、紫式部公園を後にした。


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