奈良散歩 その41 喜光寺


西大寺から南下して、まず喜光寺に行った。





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  喜光寺には、午後1時半頃に着いた。



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  午後見る予定にしていたのは黄四角で囲った場所で、一番心惹かれる一番北にある秋篠寺は、この日の最後にした。



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 喜光寺を中心とした地域は、古くから菅原の里とよばれて和歌にもよまれた景勝地で、この地は以前土師氏(古代豪族だった土師氏は技術に長じ、出雲、吉備、河内、大和の4世紀末から6世紀前期までの約150年間の間に築かれた古墳時代の、古墳造営や葬送儀礼に関った氏族である。)が住んでいた地で、後には菅原道真を輩出する菅原氏の住まいとなった。



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  菅原の里は大阪と奈良をつなぐ旧奈良街道の北に位置し、交通の要衝として多くの人びとが往来する場所であった。

721年、行基はこの地に住んでいた寺史乙丸という人物から平城京右京三条三坊の土地の寄進を受けて翌年お寺を建て、土地の名前から菅原寺と名づけた。


菅原寺は行基菩薩の建立したお寺のなかで唯一平城京内にあり、行基の布教活動・社会事業の重要な拠点寺院となっていった。


748年、行基が勧進と大仏造立に尽力するなかで聖武天皇が菅原寺に行幸した際、本尊から不思議な光が放たれ、聖武天皇は大いに喜ばれて「歓喜の光の寺である」として「喜光寺」の名を賜ったという。





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  この喜光寺の境内にも会津八一の歌碑があった。

ここでの歌は


    ひとりきて かなしむてらのしろかぶに 汽車のひびきの ゆきかえりつつ





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   会津八一は大正十年と十一年の秋にここへ一人で来て荒廃した寺を目の当たりにし、悲しさに

心がうちひしがれてこの歌を詠んだと、説明板には書かれていた。


 八一自身は自註鹿鳴集の中で「この歌を詠みしは、この寺の屋根破れ柱ゆがみて、荒廃の状目も当てかねじ頃なり。住僧はありとも見えず。境内には所狭きまでに刈稲の束を掛け連ねて、その間に、昼も野鼠のすだくを聞けり。」と記している。


 今は、会津八一の「ここでの歌」の面影など何一つない、普通に綺麗な喜光寺だった。>

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