茶の本 全文紹介 第2章 茶の諸流 その5 茶道は道教の仮りの姿

 日本はシナ文化の先蹤を追うて来たのであるから、この茶の三時期をことごとく知っている。
 早くも729年聖武天皇奈良の御殿において百僧に茶を賜うと書物に見えている。
茶の葉はたぶん遣唐使によって輸入せられ、当時流行のたて方でたてられたものであろう。
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 801年には僧最澄、茶の種を携え帰って叡山にこれを植えた。
 その後年を経るにしたがって貴族僧侶の愛好飲料となったのはいうまでもなく、茶園もたくさんできたということである。
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 宋の茶は1191年、南方の禅を研究するために渡っていた栄西禅師の帰国とともにわが国に伝わって来た。
 
彼の持ち帰った新種は首尾よく三か所に植え付けられ、その一か所京都に近い宇治は、今なお世にもまれなる名茶産地の名をとどめている。

 南宋の禅は驚くべき迅速をもって伝播し、これとともに宋の茶の儀式および茶の理想も広まって行った。
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 十五世紀のころには将軍足利義政の奨励するところとなり、茶の湯は全く確立して、独立した世俗のことになった。
 
爾来茶道はわが国に全く動かすべからざるものとなっている。

 後世のシナの煎茶は、十七世紀中葉以後わが国に知られたばかりであるから、比較的最近に使用し始めたものである。
 日常の使用には煎茶が粉茶に取って代わるに至った、といっても粉茶は今なお茶の中の茶としてその地歩を占めてはいるが。
 
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 日本の茶の湯においてこそ始めて茶の理想の極点を見ることができるのである。

 
1281年蒙古襲来に当たってわが国は首尾よくこれを撃退したために、シナ本国においては蛮族侵入のため不幸に断たれた宋の文化運動をわれわれは続行することができた。
 茶はわれわれにあっては飲む形式の理想化より以上のものとなった、今や茶は生の術に関する宗教である。
 茶は純粋と都雅を崇拝すること、すなわち主客協力して、このおりにこの浮世の姿から無上の幸福を作り出す神聖な儀式を行なう口実となった。茶室は寂寞たる人世の荒野における沃地であった。
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 疲れた旅人はここに会して芸術鑑賞という共同の泉から渇をいやすことができた。
 茶の湯は、茶、花卉、絵画等を主題に仕組まれた即興劇であった。

 茶室の調子を破る一点の色もなく、物のリズムをそこなうそよとの音もなく、調和を乱す一指の動きもなく、四囲の統一を破る一言も発せず、すべての行動を単純に自然に行なう-こういうのがすなわち茶の湯の目的であった。
 そしていかにも不思譲なことには、それがしばしば成功したのであった。
 そのすべての背後には微妙な哲理が潜んでいた。

 茶道は道教の仮りの姿であった。

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