「日本最長10河川の旅」での釣り 北上川への旅 その8 学校の図書庫の裏の秋の草 今も名知らず(石川啄木歌集 一握の砂 煙から)

常光寺の次に、啄木が少年時代・青春時代を生活した岩手県盛岡市玉山区渋民字渋民に向かった。
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ここには、少年時代・青春時代を生活した宝徳寺啄木が通った旧渋民小学校跡地、旧斎藤家跡地などがあるが、旧渋民尋常高等小学校校舎と旧斎藤家は石川啄木記念館の敷地内に移築されている。
最初に啄木記念館に入った。

石川啄木記念館は石川啄木の人となり、文学についての顕彰と資料収集、保存、情報提供を目的に昭和45年に開館、その後、石川啄木生誕100年を機に新記念館建設運動が高まり、玉山村民、全国の啄木愛好者、岩手県、玉山村の協力により、昭和615月に現在の新館がオープンした。

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啄木がかつて理想の「家」を詩に託した白い洋館風の建物がイメージされており、館内展示は、直筆書簡、ノート、日誌、のほか、遺品、写真パネル、映像、音響等で構成され、さらに啄木関連図書の充実が特色となっている。
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敷地内には子ども達と遊ぶ啄木の像が建っており、その背後に移築された旧渋民尋常高等小学校校舎と旧斎藤家があり、そこを覗いてみた。

旧渋民尋常高等小学校はよく取り出される華美な装飾のある洋風の学校建築とは異なり、一地域に根ざした教育施設としての素朴さや力強さを感じる明治初期建築で、時代の変化から純和風建築から脱却しつつあるようにも感じられる。

案内板によると「旧渋民尋常高等小学校は、明治17年(1884)、村民の寄付により旧渋民村愛宕の愛宕神社脇に建設された。
 建設当時の校舎は、明治17年5月に提出された新築願書によると木造2階建てで、1階には職員入口、職員室、廊下、教室があり、2階は廊下をはさんで3教室が配置されていた。
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大正2年(1913)松内分教場として移築され、約50年間使用された後に松内地区公民館として使われ、昭和42年(1967)老朽化により取り壊されることとなったが、石川啄木の母校であり、代用教員時代に教鞭をとったこともあるゆかりの校舎であることから、石川啄木記念館敷地内に移築保存された。

旧渋民尋常高等小学校の隣には旧斎藤家が移築されている。
宗費滞納問題で父は渋民を追われており、当然実家であった宝徳寺に戻るわけにはいかず、面識のあった斎藤家に間借りした。
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啄木はこの二階を間借りし、尋常小学校の代用教員の職を続けることとなるが、長女の京子が生まれたのもこの頃のこと。

ただ、この部屋は六畳程度の屋根裏部屋のような造りで、ここに啄木、妻の節子、母の三人で暮らしたというのだから、大変だったろう。
 
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階段が傷んでいることや、家屋が古いということで、二階に上ることは出来なかった。

生活は大変だったが、啄木なりに精一杯青春の生命を燃やした場所を垣間見られたというだけで、感激も浅いものでなく、心の奥にまで染みていった。

啄木の数少ない小説である「雲は天才である」などは、ここで執筆されたという。

石川啄木生誕120周年を記念して「啄木カルタ二五首」が売られていたので、みやげに購入したが、その中の一首を添えて旧斎藤家を去った。

学校の図書庫の裏の秋の草 

  黄なる花咲きし

    今も名知らず

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