越前と若狭の旅 その8 越中国の国府推定地への旅 


三国湊の見学を終え、これから武生(現越前市)に向かう。


最初に記したが、新潟県を含む現在の北陸地方は古来は高志国と言われていて、8世紀以降に越国と言われるようになった。

律令時代に入ると越国は分割されて、越前国、加賀国、能登国、越中国、越後国に分割され、それぞれの国に国府がおかれたのである。

国府とは日本の奈良時代から平安時代にかけて令制国の国司が政務を執る施設が置かれた場所や都市のことで、国司が政務を執った施設を国庁といい、国庁とその周りの役所群を国衙(こくが)という。


武生には越前国の国府があったと推定されており、国府の置かれていたと伝えられている場所を目指して車を進めている。

武生へ行く前に、越中国の国府推定地については今回の「越前と若狭の旅」の途中で立ち寄って来たので、ここで紹介する。

越後国の国府推定地については、県立中央病院付近に位置している上越市今池遺跡等の遺跡群周辺が有力視されているが、ここには時間の都合で立ち寄らなかった。

加賀国の国府推定地とされる現在の小松市古府町と、能登国国府推定地とされる現在の七尾市古府についても、同じ理由で立ち寄らなかった。

それでは唯一訪れた越中国の国府推定地への旅を紹介する。

越中国の国府推定地は現在の高岡市伏木というところにあるが、その場所の紹介をしてくれたのが高岡市万葉歴史館の職員であった。

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高岡市万葉歴史館は万葉集に関心の深い全国の方々との交流を図るための拠点として、1989年に高岡市市制施行百周年を記念する事業の一環として建設され199010月に開館した。

ここで、万葉集の代表的歌人であり編者ともされる大伴家持が、今から約1260年程前に越中国守として5年間ほど高岡の地に滞在したことを知る。

今まで国司や国府という言葉を卑近なものとして感じたことが無かったが、万葉集の編者とされる大伴家持のような有名人が越中国守を務めていたということは、一気に国司や国府という言葉を僕の中で日常会話のレベルに引き下げた。

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万葉集に親しみそれが高じてこの館の案内人をされている小柄なおばあちゃんに案内されて、それほど興味の湧かない万葉集関係の展示物を見学していたが、「越中国府」と刻まれた大きな石碑に釘付けになった。

この石碑は、越中国の国庁があったと推定されているこの近くの勝興寺というお寺の境内に置かれている石碑のレプリカだという。

おばあちゃんにはたいへん申し訳なかったが、万葉集や大伴家持の説明をほとんど聞かずに案内時間を終えると、受付に行って越中国の国庁があったと推定されている勝興寺までの案内図をいただき、国庁跡への道順まで教えていただいた。

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この赤矢印の道を通って、無事に国庁跡と推定されている勝興寺に辿り着いた。

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このりっぱな勝興寺の山門をくぐると、古代の国庁に入ったような気になったのだから不思議である。

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境内は国庁跡に相応しく広大で、その跡に建った勝興寺の本堂もりっぱなものであった。

境内をあちらこちらへ歩いて、ようやく目的のものを発見した。

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高岡市万葉歴史館で見た、「越中国府」と刻まれた大きなレプリカ石碑の本物である。

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更に近づいて見ると、確かに「越中国府」と刻まれていて、大伴家持の時代をこの場で共有しているような気になった。

越中国の国府推定地への旅は、これで終わりである。



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