「日本最長10河川の旅」での釣り 北上川への旅 その9 渋民公園内でやはらかに柳あをめる・・・(石川啄木詩歌集 一握の砂 煙)

渋民公園内の啄木歌碑が見たかった。
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あの
やはらかに柳あをめる
      北上の岸辺目に見ゆ
         泣けとごとくに
の歌碑である。

 遠く岩手山を望む北上河畔に、啄木没後10年を記念して大正11年にこの短歌を刻んだ歌碑が建てられた。
 歌碑は大勢の啄木ファンの寄付で集まった資金を元に、地元の無名の青年たちの手により建てられたもので、歌は地元の無名の石屋の手により活字体で彫られた。
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歌碑建立当時は巨大な花崗岩(かこうがん)を、雪の中村中総出で3日がかりで山から運んだという。
 その後川の氾濫により、元の位置から50mほど引いた現在地に移された。
この歌碑は、大勢の無名の啄木君達の故郷である渋民のシンボルである。
 それを象徴するかのように碑の裏面には、「無名青年の徒之を建つ」と刻まれている。


この歌は東北の遅い春の訪れである、4月下旬から5月上旬頃の北上の情景を歌ってはいるが、啄木の心情は複雑である。
「やはらかに柳あをめる」故郷の風景を、その山野が華やかに装居始める頃を、彼は喜んでいない。
 何故なら彼は「石をもて追わるるごとく」ふるさとを出ていかなければならないからである。故郷に対する想いは、単なる望郷の念などでは片づけられない、大変複雑なものがあったようだ。
 啄木は直接北上河畔に立ったのではなく、岸辺全体が視野に入るかなり離れた位置にいてこの情景を眺め三行の詩としたのだろう。

啄木の故郷に関する詩は、詩集「一握の砂 煙二」の章に集められている。

一番有名な歌は

ふるさとの訛なつかし
  停車場の 人ごみの中に
    そを聴きにいく

 であろうか。

 その他にも、そう知られていないが、望郷心を揺り動かす名歌が沢山ある。

   二日前に山の絵見しが
      今朝になりて
         にはかに恋しふるさとの山


   その昔
      小学校の柾屋根に我が投げし鞠
         いかになりけむ

 望郷心と言えば、啄木はこんな歌も作っている。

  ふるさとの山に向かいて
      言うことなし
        ふるさとの山はありがたきかな

この歌は啄木の作品であるが、室生犀星や坂口安吾も同じようなふるさとの歌を作っている。
室生犀星は萩原朔太郎のライバルで、二人とも北原白秋から激愛された詩人である
室生犀星のふるさとの歌は、もちろん、「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」である。
坂口安吾は「ふるさとは語ることなし」である。


室生犀星はわからないが、石川啄木の対面していたふるさとは「姫神の山」であり、坂口安吾の対面していたふるさとは「日本海」だった。

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このふるさと渋民が啄木にとってどういうものであったかは、その作品を通じて知ることが一番確かなことであるが、事実としては、このあたり一番の神童として過ごしたふるさとであり、神童時代のふるさとで「日本一の代用教員」を目指したふるさとである。

日本が富国強兵政策を敷き、アジアへ向って進軍を進めた時代、この時代は同時に共産主義思想が世界中に広がりを見せた時代でもあった。

このころの日本の現実は、実はアフリカ諸国の今の現実とさほど変わらないところがあり、エイズの変わりに結核が国民病とも言えるほど蔓延しており、戦争と病気と貧困が巷に溢れ、司馬遼太郎などは日本の青春時代と表現しているが、実態は一部の特権富裕階級を除き、誰も彼もが生きるのに必死な時代だったと言えよう。

国民の平均寿命も50歳程度だったと記憶している。

啄木もそして最愛の妻節子も、国民の寿命の半分程度の年齢で死んでいく。

司馬遼太郎風に表現すれば、「日本の青春時代とも言える明治時代」に生まれながら、青春時代とは名ばかりの貧困と病気という苦難の道を歩かなければならなかった啄木夫婦に、非常に複雑な思いを馳せた。


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