「日本最長10河川の旅」での釣り 北上川への旅 その11 青春の川「北上川」の終わり 

 ここが北上川源流地である、「弓弭の泉」への最初の入口である。
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 源流地は源流公園として整備されており、源泉は御堂観世音の境内から湧き出ている。
 そこへ車を進めていくが、その前に恒例の源流釣行を試みた。
 この旅は渓流釣り師半分旅人半分の気持ちで旅しているが、いつも寄り道回り道戻り道の旅となって、なかなか目的の源流地にはすんなりと着けない旅となってしまう。
 北上川の旅もそんな旅になってしまった。
 我が青春の思い出と宮沢賢治や石川啄木の青春の旅が交錯並走し、思わぬ方向へ進んでしまったようである。
 旅の最後は釣り師で締めようとY字路を左の弓弭の泉の方向へは向かわず、右手の朽木川に沿って車を進めた。
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 川筋の所々で車を停めて釣ってみるが、アタリもなく、何かはいるような気もするので、粘って何回か餌を流すが、スカの連続である。
 この朽木川のY字路から2km程上流に、高さ8m、幅10m程度の御堂新田の滝があり、この滝壺を釣ってみることにした。
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 滝つぼは立派でイワナが居そうであるが、10分ほど粘っても来なかった。
 たぶん既に、誰かに釣られてしまっていたのだろう。
 滝の上流に行って釣ってみる気ももう無くて、源流釣行はここで最後とした。
 これで結果はどうであれ、源流釣行の旅の儀式はつつがなく終了し、後は源流の地へ辿り着くのみで、ここから車を進めて源流地に向かうことにした。
 北上川源流の地は北上川源流公園となっていて、東屋や池などが造られていて散策もでき、広い駐車スペースも備えている。
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 北上川の源流は御堂観音堂の境内から流れ出ている湧水で、以前旅した姫川の源流地と相似している。
 御堂観音堂は、大同三年六月坂上田村麻呂将軍が祈願所として建立されたといわれ、その一族である僧、了慶がひらいたと伝えられている。
 本堂の先手観音像は南部氏がここを領地にした際、守り本尊として当院に寄進し、今日に及んでいる。
 この御堂観音堂の境内に、北上川の源流となる「弓弭(ゆはず)の泉」が湧き出ていて、そこへ歩いていく。
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 弓弭(ゆはず)の泉のいわれだが、平安時代天喜5年6月、源頼義、義家父子率いる朝廷軍はこの地方の豪族・安倍氏を討つため軍を率い、北へと進軍したが打続く炎暑に兵馬とも疲弊し、士気も上がらなかった。
 源義家はふと思い立ったように、小高くて周囲が見渡せる山(一説では岩手町水堀の鞍掛山)へ登ると遥か前方に巨大な杉の木を見つけ、お祈りした。
 一説によると義家が天に向かい矢を放つと、普通では考えられないくらい矢は飛び、大杉の根元に刺さったともいわれている。
 源義家は森の中へと兵を進め、僕も歩みを進める。
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 大杉の根元を手にしていた弓弭(弓のつるをかける先端部分)で突くと、にわかに清水が湧き出てきた。
 兵馬ともごくごくと清水を飲み、ついにはみな生き返ったように元気になり、安倍氏を討ち、のちに「前九年の役」と言われる長く続いた戦乱を鎮圧したといわれている。
 この義家が「弓弭」で掘って湧き出た清水が「弓弭の泉」であり、そのエピソードどおりに北上川の源流は作られており、北上川の最初の一滴は大杉の枯木の根元から流れ出ている。
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 蝦夷と戦っていた坂上田村麻呂の建立した御堂観音堂境内から流れ出るのも、北上川の源流地にいかにも相応しい。
 何故なら、北上川が古来「日高見川」と呼ばれていて、「日高見」とは「蝦夷のいるあたり」という意味で、分解して意味を探ると、「ヒダ」は「蝦夷」「か」は「場所」、「ミ」は「そのあたり」というような意味となり、北上川の古来からの名称の謂れにこれほど似つかわしい場所は他にない。

 僕の北上川の旅も、やっと源流に辿りついた。
 僕の青春は五木寛之のマネから始まったが、宮沢賢治や石川啄木と出会って回り道や戻り道を繰り返している間に、いつの間にか歴史小説家司馬遼太郎に似た思考と文体となっている。

 青春の川「北上川」の旅はこれで終え、次回から何回か、啄木の函館時代に話を進めていく。
 啄木が妻子を盛岡に、老婆を渋民に残し、妹の光子と津軽海峡を越えたのは、明治40年(1907年)5月4日で、まず函館に居を構え、その後札幌、小樽、釧路と北海道を遍歴放浪することになる。

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