奈良散歩 その51 高御座(たかみくら) 

 次は高御座(たかみくら)の説明である。
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 高御座は国家儀式の際に天皇が着座した王座である。
 奈良時代の高御座の構造の記録はなく詳細は不明で、ここに展示した模型は大正天皇の即位の際に作られた高御座(京都御所に現存)を基本に、各種文献資料を参照して製作した実物大のイメージ模型である。
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 細部の意匠や文様は、正倉院宝物などを参考にして創作したという。
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 高御座の正面に移動して、説明が再スタートした。
 2019年10月22日(火)から始まった「即位の礼」で使われた高御座は、若干の違いはあるがここにあるものとほぼ同じである。
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 天皇が高御座に座ると、200人ほどの臣下の貴族たちは身分によって着る衣装を変えながら、この広場に整列した。
 下っ端の役人たちは、向こうに見えている建設中の建物の後ろの広場に行列した。
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 ここで僕が韓国で同じような建物を見たという話をすると、ガイド氏はこの話に反応して、話の内容をグレードアップした。
 日本の文化はずっと韓国(朝鮮半島)経由で入ってきたが、奈良時代は新羅と仲が悪くなって半島は通れなくなり、直接海を渡って中国の長安から先進文化を輸入した。
 8世紀の長安は地球上で一番大きい都市で、文化の先端を走っていた。
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 そこへ、遣唐使船などに乗った一周遅れの日本の若い人たちが行って、先進文化を学んで日本に持ち帰って来た。
 今までは朝鮮半島経由なので、先進文化を自国に取り入れる頃には次の先進文化が育っていて、なかなか先進文化の国々に追いつけなかったが、直接先進文化の国と交流することで、時差が生ずることもなく、奈良時代の日本は世界の先進文化圏に入っていけたのである。
 「奈良の都は長安の都をそのまま真似たので、奈良は長安の都を冷凍保存したような町ですね。」とガイド氏に話しかけた。
 「寸法が二分の一なので、面積は四分の一となり、長安の街とは違っている。その位の違いがあって唐と日本との関係はうまくいったのだろう。
 もっと大きな街を造っていたら、唐の軍隊が攻めてきて滅ぼされたろう。」とガイド氏は話した。 
 「そういえば、天智天皇の頃に唐と新羅、日本と百済という構図で白村江の戦いがあった。」と話を続けた。
 ガイド氏はこの話に反応して「白村江の戦いの結果が律令制の奈良時代を生み出したということで、この建物が造られたのもそういう流れの一つだ。」と締めくくった。
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 話が核心部分に触れ、もうこれでここは十分ということで、再度高御座を撮影して第一次大極殿を後にした。

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