岡倉天心 茶の本 第四章 茶室 その4 茶室は芸術的精神の聖堂

 茶室はある個人的趣味に適するように建てらるべきだということは、芸術における最も重要な原理を実行することである。
 芸術が充分に味わわれるためにはその同時代の生活に合っていなければならぬ。
 それは後世の要求を無視せよというのではなくて、現在をなおいっそう楽しむことを努むべきだというのである。
 また過去の創作物を無視せよというのではなくて、それをわれらの自覚の中に同化せよというのである。
 伝統や型式に屈従することは、建築に個性の表われるのを妨げるものである。
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 現在日本に見るような洋式建築の無分別な模倣を見てはただ涙を注ぐほかはない。
 われわれは不思議に思う、最も進歩的な西洋諸国の間に何ゆえに建築がかくも斬新を欠いているのか、かくも古くさい様式の反復に満ちているのかと。
 たぶん今芸術の民本主義の時代を経過しつつ、一方にある君主らしい支配者が出現して新たな王朝をおこすのを待っているのであろう。
 願わくは古人を憬慕することはいっそうせつに、かれらに模倣することはますます少なからんことを!
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 ギリシャ国民の偉大であったのは決して古物に求めなかったからであると伝えられている。
 「空き家」という言葉は道教の万物包涵の説を伝えるほかに、装飾精神の変化を絶えず必要とする考えを含んでいる。
 茶室はただ暫時美的感情を満足さすためにおかれる物を除いては、全く空虚である。
 何か特殊な美術品を臨時に持ち込む、そしてその他の物はすべて主調の美しさを増すように選択配合せられるのである。
 人はいろいろな音楽を同時に聞くことはできぬ、美しいものの真の理解はただある中心点に注意を集中することによってのみできるのであるから。
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 かくのごとくわが茶室の装飾法は、現今西洋に行なわれている装飾法、すなわち屋内がしばしば博物館に変わっているような装飾法とは趣を異にしていることがわかるだろう。
 装飾の単純、装飾法のしばしば変化するのになれている日本人の目には、絵画、彫刻、骨董品のおびただしい陳列で永久的に満たされている西洋の屋内は、単に俗な富を誇示しているに過ぎない感を与える。
 一個の傑作品でも絶えずながめて楽しむには多大の鑑賞力を要する。
 してみれば欧米の家庭にしばしば見るような色彩形状の混沌たる間に毎日毎日生きている人たちの風雅な心はさぞかし際限もなく深いものであろう。
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  「数寄屋」はわが装飾法の他の方面を連想させる。
 日本の美術品が均斉を欠いていることは西洋批評家のしばしば述べたところである。
 これもまた禅を通じて道教の理想の現われた結果である。
 儒教の根深い両元主義も、北方仏教の三尊崇拝も、決して均斉の表現に反対したものではなかった。
 実際、もしシナ古代の青銅器具または唐代および奈良時代の宗教的美術品を研究してみれば均斉を得るために不断の努力をしたことが認められるであろう。
 わが国の古典的屋内装飾はその配合が全く均斉を保っていた。
 しかしながら道教や禅の「完全」という概念は別のものであった。
 彼らの哲学の動的な性質は完全そのものよりも、完全を求むる手続きに重きをおいた。
 真の美はただ「不完全」を心の中に完成する人によってのみ見いだされる。

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