岡倉天心「茶の本」 第四章 茶室 その5 重複を避ける 


人生と芸術の力強いところはその発達の可能性に存した。


茶室においては、自己に関連して心の中に全効果を完成することが客各自に任されている。


禅の考え方が世間一般の思考形式となって以来、極東の美術は均斉ということは完成を表わすのみならず重複を表わすものとしてことさらに避けていた。


意匠の均等は想像の清新を全く破壊するものと考えられていた。


このゆえに人物よりも山水花鳥を画題として好んで用いるようになった。


人物は見る人みずからの姿として現われているのであるから。


実際われわれは往々あまりに自己をあらわし過ぎて困る、そしてわれわれは虚栄心があるにもかかわらず自愛さえも単調になりがちである。


茶室においては重複の恐れが絶えずある。


室の装飾に用いる種々な物は色彩意匠の重複しないように選ばなければならぬ。



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 生花があれば草花の絵は許されぬ。

丸い釜を用いれば水さしは角張っていなければならぬ。


黒釉薬の茶わんは黒塗りの茶入れとともに用いてはならぬ。


香炉や花瓶を床の間にすえるにも、その場所を二等分してはならないから、ちょうどそのまん中に置かぬよう注意せねばならぬ。


少しでも室内の単調の気味を破るために、床の間の柱は他の柱とは異なった材木を用いねばならぬ。


この点においてもまた日本の室内装飾法は西洋の壁炉やその他の場所に物が均等に並べてある装飾法と異なっている。



 西洋の家ではわれわれから見れば無用の重複と思われるものにしばしば出くわすことがある。


背後からその人の全身像がじっとこちらを見ている人と対談するのはつらいことである。


肖像の人か、語っている人か、いずれが真のその人であろうかといぶかり、その一方はにせ物に違いないという妙な確信をいだいてくる。



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 お祝いの饗宴に連なりながら食堂の壁に描かれたたくさんのものをつくづくながめて、ひそかに消化の傷害をおこしたことは幾度も幾度もある。

何ゆえにこのような遊猟の獲物を描いたものや魚類果物の丹精こめた彫刻をおくのであるか。


何ゆえに家伝の金銀食器を取り出して、かつてそれを用いて食事をし今はなき人を思い出させるのであるか。



 茶室は簡素にして俗を離れているから真に外界のわずらわしさを遠ざかった聖堂である。


ただ茶室においてのみ人は落ち着いて美の崇拝に身をささげることができる。


十六世紀日本の改造統一にあずかった政治家やたけき武士にとって茶室はありがたい休養所となった。


十七世紀徳川治世のきびしい儀式固守主義の発達した後は、茶室は芸術的精神と自由に交通する唯一の機会を与えてくれた。


偉大なる芸術品の前には大名も武士も平民も差別はなかった。


今日は工業主義のために真に風流を楽しむことは世界至るところますます困難になって行く。


われわれは今までよりもいっそう茶室を必要とするのではなかろうか。


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