「オホーツク街道」の旅 その4 小平町にて旧花田家番屋、三船遭難慰霊之碑を見る!!

 鰊漁で賑わった増毛町(ましけちょう)を通過する。
 増毛は北海道北西部、留萌管内南部にある町で、町内には北海道遺産に選定されたレトロな建物が立ち並ぶ。
 ボタンエビの漁獲高が日本一で、アマエビやたこなどの水揚げも多い。町名の由来はアイヌ語の「マシュキニ」「マシュケ」(カモメの多いところ)から。

 留萌市(るもいし)を通過する。
 留萌市は北海道留萌管内にある市。留萌振興局所在地で、留萌管内の中心都市である。昔ほどではないが今でもニシンが水揚げされ、国内最大の輸入港の留萌港を擁する。現在はニシンの魚卵であるカズノコの国内最大の加工地。
 
市名の由来はアイヌ語「ルルモッペ」(潮が奥深く入る川)から。

 そして小平町(おびらちょう)は途中下車となる。
 小平町には日本最北端の国指定重要文化財、旧花田家番屋がある。
 明治38年頃に建築され、道内で現存する番屋では最大の規模を有し、当時雇い人が200人を超えた大鰊番屋である。

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 江戸時代、経済の基盤は米であったが、渡島半島の南西部を所領としていた松前藩の場合、(ニシン)が経済の基盤をなしていた。(鰊は当時は鯡[魚に非ず]と書いて米相当の扱いだった。)

 漁獲された鰊は、ニシン粕、身欠ニシン、干数の子等に加工され、一部は生食用として販売された

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大鰊番屋内部(作業場兼宿舎)

 
加工されたニシン製品は北前船に乗り、主に関西方面へ運ばれ、中でもニシン粕は肥料として日本の農業を大きく支えた。



 鰊漁が当れば一網千両、万両といわれる大金が転がり込むのだから、誰もが眼の色を変える。ゴールドラッシュのような騒ぎに近かっただろう。

北上する鰊を追って、人が動き、物が動き、金が動いた時代である。

 だが、鰊の来遊は南から順に途絶え、明治30年代には、秋田、青森、昭和30年には留萌地方でも激減、昭和32年には日本海春鰊漁は完全に幕を下ろすことになる。

 ゴールドラッシュの残滓というにはあまりにもりっぱな旧花田家番屋である。

 この旧花田家番屋の鰊国道を挟んで向かいに駐車帯がありその公園内に、三船殉難事件(さんせんじゅんなんじけん)を供養するための三船遭難慰霊之碑がある。


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 三船殉難事件とは、第二次世界大戦末期(日本の降伏文書への調印予告、および軍隊への停戦命令布告後)の1945年(昭和20年)8月22日、北海道留萌沖の海上で樺太からの婦女子を主体とする引揚者を乗せた日本の引揚船3隻(小笠原丸、第二新興丸、泰東丸)がソ連軍の潜水艦による攻撃を受け、小笠原丸と泰東丸が沈没して1,708名以上が犠牲となった事件。

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 1945年(昭和20年)8月15日に、大日本帝国政府はポツダム宣言を受諾し、降伏文書への調印を連合国へ通達、翌日には各軍への停戦命令の布告及び武装解除を行った。これに対応しイギリス軍やアメリカ軍は即座に戦闘行為を停止した。

 8月9日に対日参戦したソ連軍は、これを無視し、当時大日本帝国領だった樺太に侵攻ソ連軍の攻撃から避難させるため、大津敏男樺太庁長官は、長官命令で、婦女子や老人を優先的に本土に送還させるため大泊港の小笠原丸、第二新興丸、泰東丸に分乗させ本土に引き揚げさせようとした際の事件。

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 北海道はソ連(ロシア)と国境を接している最北の地。

 ソ連(ロシア)と日本の間にはこの他にもいろんな国境地帯ならではの出来事が起きた。

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