最上川と「おくのほそ道」の旅 その9 大石田にて

これから大石田町へ向かうが、大石田はかつて最上川の舟運で栄えた。

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大石田の南には、碁点、隼、三ヶ瀬の最上川三難所があり、物資を安全に運ぶためには、大石田河港で陸揚げし、三難所を避けて陸路運ぶ方がリスクが少なく確実であった。
舟運で上流部に運ぶ場合でも三難所があるため、酒田港からの大型の川舟はここまでしか入れず、三難所を越えるために小型の舟に積み替える必要があり、いずれにしても大石田河港に舟を着けなければならなかった。

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大石田の河港のあった辺りに、午前1010分頃到着である。
尾花沢を先頭に最上川流域の紅花もこの大石田の河港に集められ、大石田は、最上川の河港で最大の物資の集積地として繁栄した。

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大石田は江戸時代天領となっていたが、当時最上川の川船差配役制度が混乱し、円滑な河川交通が行われなくなったため、大石田川船役所を置いて幕府が最上川舟運を直接支配することとした。
最上川の輸送路は、山形県村山地方や置賜地方のみならず、奥羽山脈を越えて仙台藩にまで至り、仙台城下にまで上方の物資をもたらした。

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ここは大石田川船役所跡大門、ここから役人は出入りし最上川の舟運を仕切った。

大石田はまた芭蕉のおくのほそ道の旧跡地でもある。
芭蕉は山寺から羽州街道を大石田に向かい、午後の二時ごろ大石田の高野一栄邸に到着した。

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ここが、最上河畔の船宿をしていた高野一栄邸跡
おくのほそ道から大石田の記載部分を現代語訳で紹介する。

最上川を舟に乗って下ろうと、大石田というところで日和を待つ。
かつて、ここに古き俳諧の文化が伝えられ、それが実って定着し、盛んに詠まれた頃を忘れずに懐かしがっている。
葦笛の響きのような田舎じみた心を、俳諧が慰めてくれるので、これから先の進路について決め兼ねて、旧態依然とした古風俳諧ながらこれを継承していくか、それとも新風の蕉風俳諧を会得するか、迷っているのだが、舵取りしてくれる人がいないので是非に、というので、止むを得ず歌仙一巻を巻いて残した。

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芭蕉、一栄、高桑川水、曽良の四名で歌仙が巻かれたが、この日は一巡し終えたところで詠み終え、近くの黒滝山向川寺に逍遥した。
曽良は、疲労により在宅した。
翌日も昨日と同じ連衆にて歌仙が巻かれ、「さみだれを」歌仙が出来上がり、芭蕉自らこの一巻を清書した。

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これが、高野一栄邸跡にある芭蕉真筆の「さみだれを」の碑である。

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この碑の説明板が近くにあったので紹介する。

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