「鎌倉ものがたりと横須賀ストーリー」 その3 極楽寺坂切通しを歩く

鎌倉権五郎神社の見学を終え、江ノ電の踏切を渡って極楽寺坂切通に向かった。

イメージ 1

この力餅家の角の左手方向が極楽寺坂切通しである。
力餅家であるが、創業は元禄時代にさかのぼるという300年以上の伝統を誇る老舗で、柔らかい餅をこしあんでくるんだ力餅で知られる店である。
力餅は右目を射られながらも戦ったと伝わる鎌倉権五郎景政の怪力にちなんだ鎌倉名物の和菓子である。
時間がお昼を過ぎていたので、この店で1個100円の力餅を2個買って食べて極楽寺坂切通しに備えた。
極楽寺坂切通しは鎌倉七切通し(鎌倉七口)のひとつである。
いわゆる山を切り取って道とした古道であり、江戸時代に水戸光圀編纂による「新編鎌倉志」により七切通し(鎌倉七口)と名付けられた。

イメージ 2

極楽寺坂切通しは鎌倉七切通しの中では最も西南に位置し、鎌倉市の極楽寺方面と比ヶ浜方面を結ぶ道である。

イメージ 3

このかなりの勾配となっている坂を登っていく。

歴史上、極楽寺坂を有名なものとしたのは1333年の鎌倉幕府滅亡時の合戦における新田義貞鎌倉討入りである。
武蔵国の分倍河原の戦いの勝利の後藤沢まで兵を進めた義貞は、軍を巨福呂坂・化粧坂方面と極楽寺坂方面に分け、鎌倉攻略を図った。
極楽寺方面の新田軍は大館次郎宗氏と江田三郎行義を大将とし、一方の鎌倉軍は大仏陸奥守貞直が大将として迎え撃った。

イメージ 4

右手の石碑には、極楽寺坂切通しの由来とここで新田軍と鎌倉郡が戦ったことが記されていた。
しかし極楽寺坂切通は険しい上に幕府軍が陣を整えて待ちかまえていたために、新田軍はこれを破ることができず大館宗氏はここで戦死する。
巨福呂・化粧坂方面から応援に駆けつけた新田義貞は、極楽寺坂切通しの突破攻略は困難と判断し剣を投じて干潮を祈願したとの伝説が伝わる稲村ヶ崎の海岸線(稲村路)を通って鎌倉に侵入し、鎌倉幕府を敗北させて幕府は終わりを告げる。

イメージ 5

歴史の道を辿りながら歩いて行くと、頂上付近に喫茶店がありその店の前にこんな看板が出ていた。
司馬遼太郎は「街道をゆく 三浦半島記」の中で、この店でお茶を飲んで休んだと書いている。
「坂の頂点にちかいあたりに、店が1軒、山肌に貼り付くようにして建っている・・・」と「街道をゆく 三浦半島記」の中で紹介されている店だが、店に立ち寄らずそのまま先を急いだ。

イメージ 6

極楽寺坂切通しを歩ききり、午後零時45分に江ノ電極楽寺駅に到着した。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント