最上川と「おくのほそ道」の旅 その20 雲洞庵の参道を歩く

曹洞宗の寺院である雲洞庵の参道を歩いている。


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石畳の下には法華経が一石一字ずつ記されている参道を歩いている。

ところで法華経は、初期大乗仏教経典の1つである『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』、「正しい教えである白い蓮の花の経典」の漢訳での総称である。

法華経は日本人にとって古くからなじみのあった経典であった。

606(推古14)に聖徳太子が法華経を講じたとの記事が日本書紀にある。

聖徳太子以来、法華経は仏教の重要な経典のひとつであると同時に、鎮護国家の観点から、特に日本国には縁の深い経典として一般に考えられてきた。

聖武天皇の皇后である光明皇后は、全国に「法華滅罪之寺」を建て、これを「国分尼寺」と呼んで「法華経」を信奉した。


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最澄によって日本に伝えられた天台宗は、明治維新までは皇室の厚い尊崇を受けた。また最澄は、自らの宗派を「天台法華宗」と名づけて「法華経」を至上の教えとした。

鎌倉新仏教においても法華経は重要な役割を果たした。

浄土宗の祖である法然や浄土真宗を開いた親鸞などは、比叡山で万人成仏を説く法華経を学んだのちに専修念仏を説いた。

日蓮は、南無妙法蓮華経の題目を唱え、妙法蓮華経に帰命していくなかで凡夫の身の中にも仏性が目覚めてゆき、真の成仏の道を歩むことが出来るという教えを説いて日蓮宗の祖となった。


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そして雲洞庵の属する曹洞宗の祖、道元である。

曹洞宗の祖である道元は、「只管打坐」の坐禅を成仏の実践法として宣揚しながらも、その理論的裏づけは、あくまでも法華経の教えの中に探し求めていこうとし続けた。

臨終の時に彼が読んだ経文は、法華経の如来神力品であった。


ここを歩いていくと、僕も道元に少しは近づけたかなという気になってくる。

越後国主となる上杉景勝やその家臣である直江兼続が幼少期に北高全祝(10世住職)や通天存達(13世住職・長尾政景兄)らより勉学を学んだ寺は、境内も3000坪もあり、伽藍も立派である。


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ここを、赤四角で囲った箇所を中心に、青矢印そして黄矢印の順に歩いてみた。


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杉の大木の向こうに見えているのが本堂である。

この建物は室町時代永享年間に上杉憲実公によって建立されたが、その後江戸時代に新潟県出雲崎の小黒甚内を棟梁とする大工達によって建てられた。


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赤い絨毯の敷かれた立派な本堂をこれから見学する。

この本堂は近世寺院建築の最高峰とされ、新潟県の文化財に指定されており、また縄文時代より続く日本海文化建築の最終到達点のひとつにも数えられている。

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