「オホーツク街道」の旅 その24 目梨泊遺跡を訪ねる!!

 6月28日(木)の朝となった。

 今日から釣師の顔は捨て、考古学者の顔でオホーツク街道を歩くことになる。
 
大崎旅館でしっかりと朝飯を食べ、午前8時には旅館を出て、今日の最初の目的地となる目梨泊遺跡に向かった。

 旅館から目梨泊までは15kmほどの距離、車で20分も行けば十分つけると考えていたが、神威岬の直前まで行っても、どこにも目梨泊遺跡の表示も無ければ、それらしい風景にも出会わなかった。

 僕が頼りにしていたのは司馬遼太郎の「街道をゆく オホーツク街道」と、最後の司馬番記者となった村井重俊の「街道をついてゆく」の記述だけ、あとはインターネットからプリントアウトした遺跡の風景写真だけである。

「オホーツク街道」には、目梨泊で地元枝幸町教育委員会の佐藤隆広氏と待ち合わせし、彼の案内で同行の「街道をゆく」最後の担当記者となった村井重俊氏や考古学者野村崇氏それに挿し絵画家の安野光雅氏と雪原を歩いたことが感動的に記述されている。

 村井重俊の「街道をついてゆく」の記述の方が、より感動的にこの場面を記述しているので、ここでは彼の記述を引用する。

 この日、忘れがたい人に会った。


 枝幸町の考古学者、佐藤隆広さんだった。枝幸町が誇るオホーツク文化の遺跡「目梨泊遺跡」の調査責任者で、雪の中、国道沿いの道端で待ってくれていた。あいさつもそこそこに、佐藤さんが雪原を歩き出した。雪の下には、数百年におよぶオホーツク人の遺跡がうずもれている。一歩踏みだすと、すねまで雪に没した。冬に遺跡をみることぐらい、想像力が試されることはない。どう見ても、ただの雪原なのだ。しかしそこに古代の町が眠っている。・・・・・・・

 その情景を撮った写真が村井重俊文化講演会ポスターとなっていたので紹介する。

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 一番先頭に佐藤隆広氏、続いて安野光雅画伯そして考古学者野村崇氏、小柄な司馬遼太郎氏、最後についてゆくのが村井重俊氏である。

 感動的な記述をされた目梨泊の風景をどうしても歩きたかった。

 ただ、そういう風景が見つけられず、目梨泊を行ったり来たり、15〜16分もそうしていただろうか。いい加減探すのが嫌になって、ついに通りかかった地元の青年に案内してもらうことになり、彼の軽トラックについて行って、目梨泊遺跡に到着した。

 何か違うような感覚がして、この場所ではないよなと声に出さない声を出しながら、目梨泊遺跡だと地元の青年が教えてくれた場所に行ってみた。

イメージ 2


 写真中央に長い電柱のような棒が立っているが、あのあたりが目梨泊遺跡だという。地元の青年の話では、遺構は埋められているので実際には見れないとのこと。

 案内された場所に行ってみることにした。

イメージ 3


 向こうに見えるのは神威岬、このあたり一帯が目梨泊遺跡だという。

 目梨泊遺跡はオホーツク文化期(奈良-平安時代)を中心とする遺跡で、北海道枝幸郡枝幸町に所在し、目前にオホーツク海を望む標高20メートルの海岸段丘上に存在する。この海岸段丘は背後の丘陵からオホーツク海に注ぐ小規模な河川によって開析された舌状台地となっており、先端部は急峻な斜面となって砂と岩礁からなる海浜地にいたる。

 遺跡の調査は、国道238号線改良工事に伴う事前調査として平成2、3、4年の3回にわたって実施された。

 調査の結果、目梨泊遺跡は東西50メートル、南北350メートルの規模の遺跡であることが判明した。

 発見された遺構は縄文時代早期からオホーツク文化期までの時期にわたるが、その中心はオホーツク文化期の遺構で、この時期の遺構は竪穴住居6軒、土坑418基、墓46基、焼土跡5か所であった。

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 地元の青年の案内してくれた風景は、インターネットからプリントアウトした遺跡の風景写真と同じで、司馬遼太郎の案内された場所とは違うようだが、僕は間違いなく目梨泊遺跡を踏破したのである。(できればあの雪原に立ちたかったのだが・・・・)

 オホーツク文化期を代表する遺物は319点あり、青銅製帯金具はアムール川流域に由来するものと、本州地域から搬入された二者が存する。

 銀製品二点は耳飾で大陸由来のものである。
 鉄製品は六点の蕨手刀が注目され、すべて墓の副葬品であった。

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 蕨手刀は8世紀頃につくられた鉄の刀で、正倉院御物にもあり、大和政権やその出先機関から、この遺跡にいたオホーツク人が貰ったものと考えられている。

 司馬遼太郎はオホーツク街道の中で蕨手刀のことをこう記述している。

 蕨手刀とは、柄の形態からその名が出ている。

 鉄の柄頭が、早蕨(さわらび)の頭に似ている。正倉院御物にもこれがあり、8世紀の頃につくられたものである。


 「キャデラックを持っていたようなものですな。」
 「いや、それ以上のものでしょう。」と佐藤隆広氏が静かにいった。

オホーツクの族長氏は平素、奈良朝の官服を着てこの海岸を歩いていたのかもしれないと司馬遼太郎は想像を膨らませていたと村井重俊氏は「街道をついてゆく」で記述している。

 この佐藤隆広氏だが、生き急いでいたと司馬遼太郎が感じたとおり、49歳の若さで亡くなっている。

佐藤隆広氏と司馬が一緒にいたのは僅か2時間程だったようだが、その2時間は佐藤隆広氏の人生の中では黄金の時間だったのだろう。

 彼はその日妻にこう語っている。

 「話が尽きなかった。オレのことをわかってくれる人に会えた。」と言っていたという。

 その後猛然と司馬遼太郎の本を読み出したという。
 

 佐藤隆広氏の墓は、生涯を掛けた場所、この目梨泊にある。


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