「鎌倉ものがたりと横須賀ストーリー」 その12 源頼朝の墓を見に行く

次に源頼朝の墓を見に行くことにした。

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黄線上の道路を、上図右上の黄色矢印の源頼朝の墓まで歩いていく。

ここへ行くまでの道中が良かった。

雪ノ下3丁目という住居表示のこの辺りは、横浜国立大学付属小・中学校や清泉小学校が建てられていて完全な文教地区となっており、午前10時頃にもかかわらず小・中学生が通りを歩いていて、彼らとすれ違うたびに歴史の街に生まれたほこりのようなものが漂ってくるのを感じた。

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1970年代には県内有数の進学校として有名だった横浜国立大学附属鎌倉中学校の脇を通って歩いていく。

この当時は県下一の進学校として知られていた県立湘南高校へ毎年50~60名程度の合格者を出していたそうで、湘南高校への登竜門として知られて優秀な生徒が集まっていた。

今は学力的にはそういうことはないようで、NHK全国学校音楽コンクールなどの音楽部門で実績をあげているようである。

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清泉小学校の脇を通り、頼朝の墓の入口まで50m程のところにまで来ている。

そこまでゆっくりと近づいていく。

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ここが源頼朝の墓への入り口で、鎌倉の歴史上の最重要人物らしく目立つように何本もの旗が立てられている。

横には明治時代から昭和時代にかけての歴史学者である大森金五郎の歌碑があり、「君出でて民もしずまり九重の塵もおさまる世とはなりけり」と書かれている。

頼朝の墓へは、大倉山の南につくられたこの奥の50数段の石段を上って行く。

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この階段を上がりながら、「司馬遼太郎の街道をゆく 三浦半島記」を思い浮かべていた。

司馬遼太郎は頼朝をこの階段を上がりながら、「忍人」という一言で言い切っている。

忍人というのは悪い意味である。

ただし、忍という言葉は儒教でも仏教でも我慢する、耐えるという意味のいい言葉とされ、仏教では忍辱(にんにく)、儒教では忍辱(にんじょく)という。

忍という言葉は善と悪の両義性を持っていて、耐える意志力は善である。

しかしそれだけの意志の力がある人はいざとなれば残忍だろうということから、忍人という場合は平然としてむごいことができる悪人となる。

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石段を上がると平坦地となっていて、その奥に頼朝の墓があった。

頼朝は政治的理由により二人の弟を殺し、それまでの日本史を鉄の槌とたがねでもって叩き割ったような鎌倉幕府を造ったのである。

我慢して石段を上がってきて、やっと源頼朝に辿り着いた。

 何度も死に直面し何度も苦境を脱した男の運の強さと、その男に群がる人間たちにますます興味が湧いた。

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