「鎌倉ものがたりと横須賀ストーリー」 その14 足利公方と青砥藤綱

帰りは朝比奈峠から十二所までバスに乗り、そこから金沢街道を鎌倉駅の方向へ向かって歩き始めた。

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金沢街道沿いには鎌倉幕府高官の旧居が立ち並んでいたが、その中から赤字ア;足利公方邸旧蹟と赤字イ;青砥藤綱旧居跡を選んで立ち寄った。

金沢街道の明石橋を通り過ぎ、泉水橋交差点から鶴岡八幡宮方面へ向かうと、最初の目的地である赤字アの足利公方邸旧蹟があった。

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この足利公方邸旧蹟の史跡碑が立っているあたりの字を御所ノ内といい、付近は公方屋敷の跡とされている。

足利公方とは室町幕府によって置かれた鎌倉府の長である鎌倉公方のことである。

鎌倉幕府は崩壊したが、幕府が京都に置かれた後も鎌倉は東国の中心として重要な地であることに変わりはなく、足利尊氏は当初は長男義詮を鎌倉に下して守らせていた。

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1349年に尊氏の子で義詮の弟の基氏にその職を交代させて以後、鎌倉公方は基氏の系統が代々就任した。

鎌倉公方はその後氏満の頃から京都の将軍と対立するようになり、四代目の持氏の時についに幕府と直接対立してしまうが、持氏は幕府軍に敗れて鎌倉の永安寺で自害した。

持氏のあとはその子である成氏が鎌倉公方を継いだが、関東管領の山内上杉家との対立もあり再び幕府と戦い、1455年に古河に移り古河公方となり、鎌倉の地に鎌倉公方は不在となった。

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引き続き金沢街道を進むと、鎌倉市街の東側を流れ抜け材木座海岸に流れ出る滑川が街道と並行して流れていて、その辺りに青砥橋というバス停がある。

そのすぐ横にある橋が青砥橋である。

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この橋に関して戦前の教科書などにも載った有名な話がある。

勤め先に向かう途中の夜間のことだったが、藤綱がこの橋の上で持っていた荷物のひもを緩め、そのはずみで公金の十文を川に落としてしまった。

藤綱は慌てて人を走らせ、銭五十文で松明を買って川を照らし、公金の銭十文を探させたという。

幕府の役人はこの話を聞いて、結局それじゃ四十文の損じゃぁないかと笑ったらしいが、藤綱は、「四十文は個人の損、川に十文を失うのは天下の損」と役人に答えたという。

ついでに、五十文を散じて松明を買うのは世をにぎわすことにもなるとも言ったらしい。

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橋のらん間はコンクリート製で、そこにはしっかり青砥橋と刻まれていた。

この話は鎌倉幕府でもっともよく治まったと言われる五代執権北条時頼の時代の話で、

 青砥藤綱は無名ながらも経済に詳しい人だったらしく、武力一辺倒だった鎌倉時代も安定期になるとこういう人も必要だったという当時を象徴する話で、彼は時頼の大抜擢で世に出て名を残した。

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 この橋を渡ってすぐのところに、青砥藤綱旧邸跡の石碑が建っていた。

 碑文には、北条時頼と北条時宗に使えた青砥藤綱の業績を讃え、公金の十文を落とした際の逸話が鎌倉時代の良い行いとして書かれていた。

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