松前街道をゆく(2014年の旅) その8  箱館戦争(旧幕府軍、蝦夷地制圧)

蝦夷地は幕藩体制下では「異域」とされ異国に等しい存在であったため、日本の版図としては認識されていなかった。

一連のロシア南下の脅威により、幕府内ではこれまでの「蝦夷地=異域」という見方から、蝦夷地は「日本の一部」であり早急に移民を送り込んで開拓を行ない蝦夷地の内国化を図る必要があると、はじめて認識されるようになった。


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幕府は、仙台・秋田・南部・津軽など奥羽諸藩と松前藩に命じて蝦夷地を区分して警備させた。

ロシアとの国境だが、1854年12月に下田で日露和親条約(下田条約)が締結され、千島列島については択捉島と得撫島の間が国境となった。

だが、樺太についてはとくに境界線を定めず両国民雑居の地とされた。

幕藩体制下の蝦夷地は、実態として日本の国とは言い難く、その蝦夷地の唯一の藩であ松前藩も、もっぱらアイヌの人びととの交易のみをする、異国の中の出島のような形で存在していた特殊な藩だった。

松前藩については、またあとで記することにしたい。

日本の国とは言い難い蝦夷地で、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘が行われた。

それが、箱館戦争である。

慶応4年(1868年)4月、江戸城無血開城により、戊辰戦争は北陸、東北へ舞台を移した。5月、新政府が決定した徳川家への処置は、駿河、遠江70万石への減封というもの。

これにより約8万人の幕臣を養うことは困難となり、多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓にあたらせようと画策する。

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  榎本は新政府への軍艦の引渡しに応じず、8月20日、開陽を旗艦として8隻からなる旧幕府艦隊(開陽・蟠竜・回天・千代田形の軍艦4隻と咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美賀保丸の運送船4隻)が品川沖を脱走し、仙台を目指した。

しかし仙台到着の頃には奥羽越列藩同盟は崩壊し、米沢藩、仙台藩、会津藩と主だった藩が相次いで降伏して、東北戦線は終結した。

榎本は蝦夷地を目指す。

箱館港には官軍の防備があるため危険を冒しての敵前上陸を行わず、10月21日に内浦湾に面する鷲ノ木に約3,000名で上陸した。

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箱館の新政府は東北戦争に伴い悉く撤兵し、防備兵力は僅かな箱館府兵と松前藩兵のみとなっていた中での榎本艦隊の上陸である。

箱館府は援軍を要請、一番近い弘前藩から4小隊が10月19日、秋田に入港していた福山藩兵約700名および大野藩兵約170名が野田豁通に率いられ10月20日に箱館に到着、これらで旧幕府軍を迎え撃つこととなった。

旧幕府軍は上陸後、大鳥圭介率いる隊が峠下・七重方面から、土方歳三率いる隊が鹿部・川汲峠を経て湯の川方面からと、二手に分かれて箱館へ向けて進軍。

10月24日、大鳥軍が大野村と七重村で箱館府軍を撃破し、土方軍は川汲峠で箱館府軍を敗走させた。

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各地の敗戦を受けて清水谷公考は五稜郭の放棄を決め、新政府軍は25日に秋田藩の陽春丸とチャーターしたプロシアのタイパンヨー号に乗船し青森へ退却した。

旧幕府軍は10月26日に五稜郭へ無血入城し、榎本は艦隊を箱館へ入港させた。

旧幕府軍は上陸後5日で箱館を占領することに成功した。

松前藩との戦闘も土方歳三、星恂太郎、松岡四郎次郎が率いる戦闘隊の活躍で、松前藩主が11月19日に弘前藩へ逃亡、残された松前藩士約300名が11月22日に投降、これにより蝦夷地平定は完了した。

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